[#表紙(表紙.jpg)] 玩具修理者 小林泰三 目 次  玩具修理者《がんぐしゆうりしや》  酔歩《すいほ》する男《おとこ》 [#改ページ]   玩具修理者《がんぐしゆうりしや》  彼女は昼間いつもサングラスをかけていた。 「どうして、いつもかけてるんだい、サングラスを?」  わたしは思いきって尋《たず》ねてみた。 「いつもじゃないわ。夜に会う時ははずしているはずだわ」  今は午後七時、夏の日の入りは遅く、二人がいる喫茶店の中まで太陽光はまぶしいくらいに差し込んでいた。客はわたしたちを含めても五人ほどで、この時間にしてはかなりすいていた。 「でも、昼間はいつもだ、例外なく。どうかすると、夜でもサングラスをかけていたりすることもあるけれど、その逆——昼間にはずしていたことは一度も、たった一度もない」 「事故よ」  ちょうど、ウエートレスが、注文を聞きに来たので、会話がとぎれてしまった。わたしはアイスコーヒーを、彼女は夏だというのに、ホットミルクティーを注文した。  わたしは、わたしたちの声が聞こえない距離までウエートレスが離れるのをまってから、話を再開した。 「え? 事故って言ったのかい、今?」 「そう、事故よ」 「初耳だね、それは。どうして、今まで言ってくれなかったんだよ、それを」 「訊《き》かれなかったから。それにたいした事故でもなかったし」  少々、不審だった。確かに、事故の傷跡を隠すために、サングラスをかけることはよくあることだ。しかし、昼だけとは? ファッション的な好みや目の病気、視覚過敏などの理由でサングラスをかけているのなら、昼間だけというのもわからないでもない。しかし、傷跡を隠すなら、夜もかけ続けなくてはならないはずだ。あるいは昼間にはよく見える傷跡で、夜には目立たなくなるのかもしれない。だが、夜に近くで顔を見る機会は今までいくらでもあったが、傷跡に気付いたことはなかった。 「いくつぐらいの時、その事故は?」 「そう、あれは確か、七つか八つの時——いいえ、もっと、小さかったかもしれない」 「でも、お父さんにも、お母さんにも、一度だって聞いたことがないよ、そんな話は。それとも、何かい、秘密なのかい、僕には?」 「秘密じゃないわ。ただ二人とも知らなかっただけよ。……ある意味では秘密かもしれないわ。一度も人に言ったことがないから」 「いったい、どうして?」  普通、大人になってもサングラスをかけ続けなければならないような怪我《けが》を娘がしたら親が気づかぬはずはない。どうしても、事故の話を詳しく聞き出さなくては。 「言っても信じやしないわ」 「信じるか、信じないかは聞いてみるまで、わからないよ」  彼女はじっとわたしを見つめていたが、やがて、決心がついたようだった。 「小さいころ、家の近くに、玩具修理者がいたのよ」 「え? 壊れたおもちゃを直す人のこと、玩具修理者って?」 「そうよ。近所の子供たちはよくそこへ壊れたおもちゃを持っていったわ。どんなおもちゃでも直してくれるの」 「あるんだな、そんな商売も」 「商売じゃないわ。お金はいらないもの」 「じゃあ、ただで? 物好きな人もいたもんだ。でも、どんな関係があるのかな、その玩具修理者と事故は?」 「うるさいわね」彼女は少し怒ったようだ。「ずっと、最後まで話の腰を折りつづけるつもり? それなら、もう止めるわ」 「わかったよ。続けてよ、話の先を。もう、口を挟まないよ、できるだけね。でも、すこしだけ質問をするのはいいだろう、どうしても気になるところがあったら」 「必要最小限なら、許すわ。……えっと、どこまで、話したかしら?」 「玩具修理者のとこまで。話のとっかかりさ。ところで、名前はないの、玩具修理者に?」 「ようぐそうとほうとふ」  彼女はそう言った。本名だとすれば、日本人の名前ではない。アメリカ人やイギリス人の名前でもない。中国人でもないような気がする。 「ロシア人、その人?」 「わからないわ。でも多分、違うような気がする。だって、本当にそんな名前かどうかあやしいもの」 「どういうことだよ、それは?」 「本人から聞いたわけではないの。ただ、子供たちの一人——そのころのわたしよりも小さな子供が聞いたそうよ、玩具修理者がおもちゃを直しながら、『ようぐそうとほうとふ』と叫んでいるのを。でも、別の子は『くとひゅーるひゅー』だと強く主張していたわ。そしてわたしが聞いたのは『ぬわいえいるれいとほうてぃーぷ』という叫びだったわ」 「じゃあ、わからないじゃないか、名前かどうか。その人は外国の人で外国語が変な言葉のように聞こえたのかもしれないよ、子供の耳にはね」 「そうかもしれないけど、それは重要なことではないわ。それに玩具修理者は普段、子供たちと話す時は日本語を使っていたわ」 「よくわからないな。いったい、何者なんだよ、その男は?」 「あら、わたし、男だなんて、言ったかしら?」 「えっ!? じゃあ、女の人なのかい?」 「よくわからないわ」 「待てよ、ちょっと」さすがに、わたしも馬鹿馬鹿しくなってきた。「つまり、無料《ただ》で子供たちのおもちゃを修理してくれて、名前は『ようぐそうとほうとふ』か『くとひゅーるひゅー』で、国籍不詳、性別不詳だって言うんだね。その玩具修理者は」 「そう。その上、年齢も不詳よ」 「それは子供だったからだろう。大抵のやつの性別と年齢はわかるさ、大人になれば」 「そうかしら? でも、今となってはその頃のわたしの人を見る目がどの程度のものだったかなんて、確かめることはできないわ」 「どんな感じの人だったんだよ、ようぐそうとほうとふは?」 「顔にはなんの特徴もなかったわ。性別や年齢や人種を推測するためのなんのヒントもなかったの。髪の色は、そう、譬《たと》えれば、幼稚園児が持っているクレヨンを全部、画用紙に塗りたくったような色。服は様々な布ぎれを縫い合せて作ったものだった。仕立てがたいそう下手で、バランスもめちゃくちゃだったわ。スカートだったのか、ズボンだったかもよくわからない。ひょっとしたら、あれは服なんかじゃなくて、ただたくさんの布を体に巻きつけていただけだったのかもしれないわ。布ぎれから出ている部分は、——つまり、手とか足とか顔とかはいつもぬめぬめと脂ぎってたわ。口かずは少なくて、子供たちが壊れたおもちゃを持っていっても、二言か三言話すだけ。でも、ちゃんと、おもちゃは直るの」 「どんな感じだった、店は?」 「店は持ってないわ。玩具修理者の家に直接持っていってたのよ。ああ、でも、わたしたちはあれを勝手に玩具修理者の家だと思っていただけかもしれない。二軒の空家の塀の間の小さな小屋に住んでいたわ。その小屋はいろいろな大きさ、様々な色形の無数の石がよせ集まってできているようだった。小さいものは、米粒ぐらい、大きなものなら、大人の頭ぐらいあったかしら。そんな石が、まるで、よせ木細工のようにきれいにぴったりと組み合わされていたわ。遠くから見ると、じゃりの小山のようにも見えたけど、近づくと、どうやら家の形らしきものであるということがわかったわ」 「ただのホームレスじゃなかったのかな、そいつは?」 「子供たちはおもちゃが壊れると、玩具修理者のところに持っていったわ。新しいものも、古いものも、単純なものも、複雑なものも、独楽《こま》でも、凧《たこ》でも、竹とんぼでも、水鉄砲でも、ロボットでも、ラジコンカーでも、テレビゲームでも、ゲームソフトでも、壊れたおもちゃならなんでも持っていったわ」 「全部直ったんじゃないだろう、まさか?」 「直ったわ。ゲームカセットのような複雑なものもね」  おそらく、ゲームカセットはただの電池切れだったのだろう。結局のところ、その玩具修理者は少し手先が器用なだけの変わり者だったのだろう。目くじらをたてる程のことでもない。 「子供たちは、壊れたおもちゃを玩具修理者に直してもらっていることを大人たちには秘密にしていたの。だって、おもちゃを壊したことを大人に言えば叱《しか》られるもの。玩具修理者がいれば、安心だったわ。どんなに高いおもちゃが壊れても、大人に言う必要も、小遣いを使って修理に出す必要もなかったんですもの」  ウエートレスがアイスコーヒーとミルクティーを運んできた。ウエートレスが立ち去るまでのしばしの無言は、わたしたちに、すでに日が沈んでいることを気がつかせた。彼女は少し微笑《ほほえ》んで、両手を使ってゆっくりとサングラスをはずした。そこに現れたのは、いつものきれいな瞳《ひとみ》だった。 「それで」わたしはストローの袋を破りながら言った。「いつ、出てくるのかな、事故の話は?」 「何よ!」彼女は目を見開いて、わたしをにらんだ。「話が進まないのは、そっちのせいよ。口を挟まないって約束だったのに、次々と質問を浴びせかけたのは誰よ!」 「ごめん。ごめん。でも、おかしいよ、その話は。見た人はいるのかね、玩具修理者が実際に修理しているところをさ」 「玩具修理者はまず壊れたおもちゃをばらばらにするの。ねじ一本までよ。接着剤が使ってあるところも全部きれいにはがすの。二つ以上壊れたおもちゃがある時でも、まず全部のおもちゃをばらばらにするの。それから、何十個、何百個の部品を眺めて、にやにやして何か叫び始めるの」 「『ようぐそうとほうとふ』って?」 「そう、他にもいろいろとね。そして、部品を一つずつ拾い上げながら、組み立てるの。そうして、一つのおもちゃを組み上げると、二つ目にかかるの」 「部品が混じっちゃうだろう、それじゃあ」 「混じってもいいの。それでちゃんと動くようになるのよ」 「馬鹿馬鹿しい!」わたしは吐き捨てるように言った。「もう、いいよ、玩具修理者の話は。それより、早くしてくれよ、事故の話を」 「あの日はとても暑い日だった。午後二時頃の気温はほとんど四〇度近くもあったと思うわ。そんな暑い日でもわたしはまだ十か月の道雄の子守りをやらされていたの。明治や大正や昭和の初期ならいざ知らず、どうして、小さな子供が赤ん坊の子守りをしなくちゃいけないのか、随分不満に思ったものだわ。だけど、お母さんも、お父さんもとても怖くて、口ごたえなんかできなかった。  一度なんか道雄をおんぶしていた時、うっかり柱に道雄の額をぶつけて酷《ひど》く叱られたことがあったわ。お母さんはわたしの髪を掴《つか》んで、『おまえも道雄と同じ痛みを受けなさい』と言って、わたしの額を柱にぶつけたの。その晩、お父さんはその話を聞くと、私を家の門柱に縛りつけて、朝までほったらかしにしたのよ。わたしは泣きたかったけど、泣かなかった。声を出したりしたら、どんな目にあわされるかわからなかったから。そして、真暗な中、朝までまんじりともできなかったわ。わたし、暗闇《くらやみ》でじっとしていると、見たくないもの、見えてはいけないものが見えたりするの。それに、近所には野犬が多くて、何十匹もやってきてわたしのにおいを交替でかいだりするのだもの。  そんなわけだから、わたしは暑い日でも黙って、道雄をおぶってあやしながら、近所の店までおつかいに行ってたの。そんな時、途中でよく近所の子供たちに会ったけど、わたしは逃げるようにして、足早に立ち去ったものよ。時には子供たちは玩具修理者に壊れたおもちゃを持っていく途中だったりしたけど、おもちゃも、お人形も持っていないわたしには玩具修理者なんて関係なかったわ」 「ちょっと待てよ」わたしは彼女の言葉をさえぎった。「さっき言っただろ、玩具修理者の叫び声を聞いたって。おもちゃを修理してもらったってことだろ、修理中の叫び声を聞いたってことは」 「その日、会った子は死んだ猫をつれていたわ」彼女はわたしを無視した。「わたしはその子に聞いたの。 『どうして、死んだ猫なんかつれているの?』 『あのね、あたし、パパにこの子を買ってもらったんだけど、あたしのこと引っ掻《か》くから、踏んづけちゃったの。そしたら、動かなくなったの。ようぐそうとほうとふに直してもらうの。だって、パパにばれたら、きっと、叱られちゃうもの』」  小さな子供にはペットとおもちゃの区別はつかないのかもしれない。それどころか、生物と無生物の違いについての知識自体がないのだろう。しかし、少し大きくなれば自然とその知識は身についていく。 「その子はそのまま玩具修理者の小屋へと死猫を引き摺《ず》っていったわ。それから、わたしは国道にかかっている歩道橋を渡り始めたの。  あまりの暑さでみんな外出をひかえていたのか、歩道には見渡すかぎり誰もいなかったわ。車も時々しか走ってこなかったから、今から考えれば、正直に歩道橋を渡る必要はなかったのかもしれないわね。でも、わたしはそんなことを思いつかないほどの子供だったの。  歩道橋は子供にはかなり急な階段で半分ほど登ったところでわたしはふらふらになってしまったわ。全身汗まみれで、水をかぶったようだし、道雄もぎゃあぎゃあ泣いているし、わたしは吐き気と悪寒がして、もうどうしても階段が登れなかったわ。でも、おつかいに必要以上時間をかけたりしたらお母さんがどれほど怒るだろうかと考えて、わたしは足を引き摺るようにして、一歩踏み出したのよ。その時よ。わたしと道雄は階段から転がり落ちてしまったの」  わたしは掌《てのひら》に爪《つめ》がくいこむほど強く手を握りしめて、彼女の話を聞いていた。 「しばらくは動けなかったわ。動けなかったというより、最初は気を失っていたのだけれど、気がついてからも、ショックと痛みで身動きできなかったのよ。道雄は泣きやんでいたわ。とにかく、わたしは顔が痛くて、堪《たま》らなかったので、手で探ってみたの。手にべっとりと血がついたわ。ちょうど、額から鼻にかけて大怪我《おおけが》をしたようで、ぽたぽたと血が溢《あふ》れて、歩道に見る見る水溜《みずた》まりができたわ。道雄はわたしの下敷きになっていて、じっとしていたわ。なんとか起き上がって、背中から下ろしてよく調べたけれど、道雄はどこからも出血していなかった。でも、動かなかったわ。全然、動かなかった。そして、息もしていなかったの」 「待てよ」わたしは冷汗をかきはじめた。「冗談だろ、その話」 「道雄は死んでいたわ」彼女は続けた。「わたし最初は少し幸せな気分になったの。だって、もう、道雄の世話をしなくてもよくなったと思ったのよ。でも、しばらくして、このことが親に知られたら、どんなに叱られるだろうかと思いついてまた悲しい気分になったの。  ——このまま、道雄が死んだことを隠しとおせないかしら? ずっと道雄が生きているようなふりをすればどうかしら? 死んだ道雄をあやして、口にミルクを流しこめばどうかしら? おふろもわたしがいれて。そう、わたし、腹話術の練習もする。道雄の背中に穴を開けて、そこからわたしの手を突っ込んで時々動かせばいいのよ。そうすれば、ばれないわ! でも、いつまで、やればいいのかしら? 道雄は赤ちゃんだけど本当なら大きくなって、子供になるはずよ。どうすればいいのかしら? 毎日、体を引っ張って少しずつ伸ばせば、ごまかせるかもしれないわ。だけど、そのうち道雄は幼稚園に行く。わたしは幼稚園までついていけないわ。いっそのこと道雄の中身を全部捨てて、わたしが入り込んで、道雄のふりをしようかしら? でも、そのころのわたしは今よりもっと大きくなっているだろうし、女の子と男の子と両方をやるのは大変だわ。それに、いつか、道雄が結婚する時になったら、わたし、女の人と結婚しなくちゃいけないの? だめだわ!!  わたしはあれこれ考えながら、死んだ道雄を背負って、ふらふらとあてどもなく、歩きつづけたの。人が見ていたら随分不気味な様子だったでしょうけれど、その時は、人通りはなかったし、時々通る自動車はスピードを出していて、わたしたちには気付かなかったのよ。  二時間もすると、気温が高いこともあって、道雄は臭いだしてきたわ。顔の色も黒くなってきて到底生きているとごまかせるものではなかったわ。それに舌もだらりとたれているし、目や耳や鼻からだらだらと汁を垂らしだしていたわ。わたしの方はと言えば、血はだんだん止まってきたけれども、傷口からは道雄と同じような臭いがしてきたわ。その時よ、ぼんやりする頭に良い考えが浮かんだのは」 「玩具修理者?」わたしはだらだら流れる冷汗を服の袖《そで》で拭《ぬぐ》いながら言った。「猫と同じように?」 「そう。わたしは道雄を玩具修理者のところに持っていくことにしたのよ。絶対に直るという自信はなかったけれど、玩具修理者の噂《うわさ》はしょっちゅう聞いていて、どんなおもちゃでも確実に修理することができることは知っていたわ。だから、うまく玩具修理者をだまして、道雄のことをおもちゃだと思い込ませれば、修理してくれると思ったの。  わたしはふらふらしながら、玩具修理者の小屋がある辺りへ向かって歩きだしたの。はっきりとした場所はわからなかったけれども、いつも友達が話していたのを思い出しながら、ゆっくりと、路地の一つ一つを探したのよ。  ところが、その路地の一つでわたしは知り合いのおばさんに出会ってしまったの。そのおばさんはお母さんと仲が良かったのだけれど、お母さんのいない時にお父さんやお母さんのことをしつこく訊《たず》ねたりするから、子供心にわたしはあまり好きじゃなかったわ。  ——なるべく近付かないように気をつけて、おばさんの横を擦り抜けなければ。わたしだということがわかったら面倒だわ。かといって、あまり間隔をあけすぎても不自然になって逆に注意を引き付けてしまう。とにかく、ゆっくりと、そして、落ち着くのよ——。  でも、そのおばさんはわたしに気付いてしまったの。 『あら? 道雄ちゃんとお出掛け? 随分と遠くまできたのね。どこに行くの?』  わたしは髪で顔の左半分を隠したわ。額から鼻にかけての傷は左側が酷《ひど》かったからよ。まだかなり距離があったから、おばさんにはよく見えなかったみたいだったわ。でも、ゆっくりと近付いてきながらこう言ったの。 『あれ? 顔に何かついてるわよ』  わたしは慌てて、顔を押えて、後ろにさがったわ。 『うううん。なんでもないの。泥がかかっただけ』 『道雄ちゃんはおねんね? なんだか顔が黒く見えるわ。大丈夫?』  ちょうどその時、顔を押えている手の指の隙間《すきま》から、何かがずるりと地面へ滑り落ちたの。 『何、それ!?』おばさんは興味を持ったようだった。  それはわたしの顔の肉だったわ。 『泥よ』わたしは即座に答えた。  しかし、それは赤黒く、とても泥に見えるしろものではなかったのよ。おばさんは不思議そうな顔をしながら近付いてきたわ。  どうすれば、この場から逃げられるかしら? 『きゃあ!!』わたしは声の限り叫んだ。『知らないおばさんが変なことする!!』  おばさんはわたしをまんまるな目で見て、口をぱくぱくさせたわ。そして、まわりを見回して速足で去っていったわ。そして、去りぎわにこう言ったの。 『おぼえてらっしゃい! 変態娘!』  おばさんが行ってしまうと、わたしもきょろきょろとまわりを見回したの。いちかばちか叫んでみたけど、もし本当にひとが来たら、前よりも事態は悪化するもの。地面に落ちた肉片はわたしの掌の半分ほどもあったわ。肉が落ちたあとからはまた血がどくどくと流れだしたわ。血だけじゃなく何か臭いにおいのする黄色い汁もね。でも、それほど気にならなかったわ。なぜって、その頃には道雄が全身から出す汁でわたしの体もずぶぬれだったから、少し汁が増えたからってどうってことはなかったのよ。それに、太陽からの熱とわたし自身の体の中からの熱でのどがからからに渇いていたから、鼻を伝わって唇の隙間から流れ込む汁はその渇きを少しは癒《いや》してくれたわ。 『どこにいくの?』  突然、声をかけられて、どきりとしたけれども、おばさんが戻ってきたわけではなかったわ。肉片を見て呆然《ぼうぜん》としていたから、近寄ってきたのに気付かなかったけど、さっき死猫を連れていた女の子だったわ。 『猫はどうしたの?』  と、わたしはかすれる声で尋ねた。 『もう、持っていったわ。ようぐそうとほうとふはたくさんおもちゃが集まるまで修理を始めないの。なかなか、始まらないから、家に帰るの。後で取りにいくのよ』 『ようぐそうとほうとふに修理を頼む時はどうすればいいの?』 『別に。ただ、ようぐそうとほうとふの家に入って、ようぐそうとほうとふが出てくるのを待つの。出てきたら、おもちゃ見せて、直してって言うの』 『そしたら?』 『そしたら……どうしたの? それ、血?』 『何でもないわ。ちょっと転んだの。そんなことより、ようぐそうとほうとふが出てきたらどうすればいいの?』 『どうして、そんなこと聞くの? ……服にまで血がついてるわ』 『別に大したことじゃないの』本当のことを言ったら、あとで告げ口されるかもしれないわ。『お人形の手がとれちゃったから、直してもらうの。今はおうちに置いてあるんだけど……』 『お人形なんか持ってたの? 全然、知らなかったわ。リカちゃん? バービー? ……道雄ちゃん口から何か出してるわよ』 『あの、人形はお母さんが作ったから、名前はないの』 『へえ、いいな』その子は目を輝かした。『じゃあ、自分で勝手に好きな名前が付けられるのね。何ていうのにするの? ……ちょっと、あんたの口からも何か出てるわ』  わたしは手で口もとを拭った。何か黒い汁とだいだい色の汁がついた。 『名前は……えっと……コーディリアよ』 『何、それ。変なの。……あれ? どうしたの。道雄ちゃんの髪の毛がどんどん抜けていくわ』 『じゃあ、アナデメンドーサにするわ。それより、さっきの話の続きを教えて』 『さっきの話?』その子はすっかり、忘れているようだった。『ああ、ようぐそうとほうとふの話ね。ようぐそうとほうとふの家へいったら、ようぐそうとほうとふが出てくるのを待ってから、直してって言うの。……顔から何か落ちたわよ』 『直してっていうのはさっき聞いたわ。それから?』 『そうしたら、ようぐそうとほうとふがおもちゃを取り上げて、よく調べるの。調べ終わったら、ようぐそうとほうとふは、どう直してほしい、って言うの。……道雄ちゃんのおなかから蛙みたいな音がしたけど、大丈夫? ……その時に、元の形にとか、動くようにとか、光るようにとか、テレビに繋《つな》げばゲームができるようにとか、テレビゲーム機に差し込めばゲームができるようにとか言うの。……赤ちゃん、おもらししてるわよ。……そうしたら、ようぐそうとほうとふはもう一度おもちゃをよく調べて、突然、叫び出すの。それから、おもちゃを畳に叩《たた》き付けるの。その時、おもちゃはもっと壊れる時もあるわ。……二人とも、どうして、耳からミルク出してるの? ……ようぐそうとほうとふは押し入れからいろんな道具を出してきて、おもちゃを分解するの。自動車のおもちゃだったら金槌《かなづち》とねじまわしで、お人形だったらカッターナイフとはさみでよ。ばらばらにする時にいつも何かぶつぶつ言ってるの。皆は呪文《じゆもん》だって言うけど、わたしは歌だと思うの。もしも、それより前に他の誰かが別のおもちゃを持ってきていたら、畳の上には何種類かのおもちゃの部品が散らばって、ようぐそうとほうとふは別の歌を歌いながら全部の部品をぐちゃぐちゃにかきまぜるの。そして、また、叫んで部品を組み立てるの。物凄《ものすご》いスピードで、あっというまに終わるのよ。……どうして、赤ちゃんの手の長さが右と左でこんなに違うのよ? ……組み立てが終わると、おもちゃはちゃんと直ってるの。お人形は元通りの形になってるし、自動車は動くようになってるし、ライトは光るようになってるし、テレビゲーム機はちゃんとゲームできるし、ゲームカセットも……震えてるの? どうして? こんなに暑いのに?』  確かに、寒かったけれど、それより全身の筋肉がけいれんしてどうしても止められなかったの。 『大丈夫よ。道雄をあやしているだけ。それより、ようぐそうとほうとふの家はこっちでいいの?』 『何言ってるの。そっちじゃないわ。ようぐそうとほうとふの家は向こうよ』その子はわたしが来た方を指したの。『こっちの方に三十分ぐらいよ』  わたしはその子に礼を言ってまた足を引き摺りながら、死んだ道雄を背負って歩きだしたの。  やっと、玩具修理者の小屋に着いた頃には夕方になっていたわ。夕日を浴びた小屋は灰色一色に見えて、よく見ないと墓石と間違えそうだった。入口の扉は大きくて重そうだったけど、不思議とすんなり開けることができたわ。  家の中に入ると、下駄箱こそなかったけど。玄関らしきものはあったわ。玄関の先はいきなり畳の部屋になっていて、大きさは、そう、四畳半か六畳ぐらいだったかしら。部屋には窓はなくて、明りはわたしが開けた玄関からの光と天井に付いた裸電球だけだった。畳は何だかぶよぶよしていて変な臭いがしていたし、壁はあっちこっち剥《は》がれて、黒と黄色の斑《まだら》になっていたわ。そして、天井には人の顔の形をしたしみが無数にあったの。玄関の反対側には襖《ふすま》があって、どうやら奥にも部屋がありそうだったわ。  わたしは畳の上に倒れ込んだの。そして、震える舌を無理やりに動かして叫んだの。 『ようぐそうとほうとふ!!』  でも、玩具修理者は出てこなかった。わたしはそれ以上動くこともできず、そのまま畳の上でうなりつづけたわ。わたしと死んだ道雄から汁が垂れて、それが畳のぶよぶよしたぬめりと混ざりあって、べとべとした水溜《みずた》まりが、広がっていったのをぼんやりと覚えているわ。  三十分程そうしていると、襖が細く開いて、目が覗《のぞ》いたわ。だけどその目は、別にこちらを見ている様子でもなく、ぜんぜんとんでもない方角に向いていた。それから、大きく襖が開いて、玩具修理者が現れたの。相変わらず目はわたしを見ていなかった。しかも、左右で違う方向をにらんでいたのよ。口には冷たい微笑《ほほえ》みをたたえて、茶色の歯の間から目の覚めるような赤さの舌が覗いていたわ。そして、肌はその小屋と同じような色をしていた。  わたしは奥の様子を覗こうとしたけれども無理だったわ。真暗で何も見えなかったの。  玩具修理者はわたしたちに近付いてきて、道雄を持ち上げようとしたのよ。でも、おんぶ紐《ひも》をしていたから、わたしも引っ張り上げられて宙吊《ちゆうづ》りになってしまったわ。 『てぃーきーらいらい。……これを、どう、する? どう、したい? ……てぃーきーらいらい』  玩具修理者はそう言ったわ。声は太いようで、細いようで、いろいろな高さの音が混じったような感じだった。 『ようぐそうとほうとふ!!』もう一度、わたしは声の限り叫んでみたけれども、それはささやきにしかならなかったわ。『これを直して! 元の形に、動くように、話すように、食べるように、飲むように、汗をかくように、泣くように、おしっこをするように、うんこをするように、見えるように、聞こえるように、臭いをかげるように、味わえるように、感じるように、考えるように』  玩具修理者はまた道雄をじっくりと観察して、こう叫んだの。 『ぬわいえいるれいとほうてぃーぷ!! まだなのか!?』  そして、わたしごと道雄を畳に叩き付けたの。  痛みでぐったりしていると、玩具修理者は一度奥の部屋に戻って、錆《さ》びついたカッターナイフを持ってきたわ。それを使って、おんぶ紐を切って道雄を畳の上に放り出したの。  玩具修理者はまず道雄の服を脱がしだした。全部脱がし終わると、服やおむつを丁寧に畳の上に広げだしたの。そして、服についているボタンを取り外しにかかったわ。それも、決して糸を切ってしまわないように注意深く。取り外したボタンは糸といっしょにまた丁寧に畳の上に並べたわ。次に服の縫いあわせもよく調べて丁寧に糸を抜き取ってばらばらの布にしてしまったのよ。玩具修理者は今度はルーペのようなものを取り出してきて、針を使って布をほぐして一本一本の糸に戻していったわ。そして、その糸を全部きれいに伸ばして、畳の上に並べていったの。それが終わると、紙おむつを丁寧に調べだして、紙を一枚一枚破らないように剥がしだしたの。剥がしていくと、最後にどろんとゼリーのようなものが溢《あふ》れだした。玩具修理者はゼリーの臭いをくんくんとかいで、にたりと笑って、何か歌を歌ったわ。 『りーたいとびー、ぎーとべいくく、……』  服とおむつを解体し終わると、奥の部屋からおもちゃのマシンガンを持ってきて、叫びながら、畳に叩き付けて分解を始めたの。あれは別の子が持ってきたものだったのだわ。たくさんおもちゃを集めてから修理するつもりだったのよ。玩具修理者は物凄いスピードでねじをはずし、接着部分を剥がし、必要ならカッターナイフを使って、マシンガンをばらばらにしたわ。それが終わると、次には子供用のワープロを持ってきたの。これも同じようにばらばらにしてしまったわ。プリント基板から一つ一つ部品をはんだごてで外してね。そして、その部品もきれいに畳の上に並べたのよ。でも、畳の上に既に並べてあった無数のマシンガンの部品や、服の繊維や、ボタンや、紙や、ゼリーでいっぱいになっていた上に重ねるように置いていったので、すっかりどれがどの部品かわからなくなってしまったわ。そして、玩具修理者は死んだ道雄のそばに座って、毛を一本ずつ抜き始めたの。時々、毛を抜くと同時に汁が飛び出て、玩具修理者の顔にかかったけれど、気にしていないようだった。それどころか、楽しそうに歌を歌っていたわ。 『すひーろうびーようゆーいぃーえいふいぃーえいふいぃーえいふ、あいめいがいにーどりーみーる、……』  全部、毛を抜き終わると、次は手と足の爪を抜きだした。やっぱり、抜く時に汁が飛び出したわ。それから、カッターナイフを持ちだして、頭の頂から肛門《こうもん》まで一文字に切り下ろして、慎重に皮膚を剥がしたのよ。皮を剥がされた道雄は黄色と白の斑になって、脂肪の塊にしか見えなかった。そして、玩具修理者は脂肪を注意深く、筋肉から剥がしていったの。脂肪をとられた道雄は理科の実験室に飾ってある人体模型のようだった。玩具修理者は筋肉の繊維を一本ずつほぐしながら畳に並べていった。そうやって全ての筋肉をほぐし終わると、後には骨格と脳と神経と血管と内臓と眼球だけが残っていたわ。まず、目を抜いて、どうやったのか脳も頭蓋骨《ずがいこつ》から抜き取ってしまったの。幼いわたしの目には、いちごのババロアか、トマトジュースに浸した豆腐に見えたそのぷよぷよした脳を、玩具修理者はじっくりと観察して、まず、右脳と左脳に分けたわ。断面を観察してから、今度は、大脳辺縁系とか、小脳とか、えんずいとか、脳下垂体とか、そのころのわたしにはもちろんよくわかっていなかったのだけれど、そんな多くの小部分に精密に分解していったわ。そして脊髄《せきずい》をうまく背骨から抜き取った後、全身の神経を切らないように引き摺りだして畳の上に並べたの。玩具修理者は内臓や血管を全部取り出し、中を開いて血を出してそれぞれをきちんと分解したわ。特に消化器を開くときは凄《すさ》まじかった。消化器というのは思っているよりも長く、赤ん坊でも何メートルもあるのよ。骸骨《がいこつ》になった道雄のおなかから、食道とか胃とか十二指腸とか、小腸とか、大腸とか、結腸とか、盲腸とか、直腸とか、肛門とか、後、名前も知らない臓器が流れ出して、部屋いっぱいに海のように広がったわ。玩具修理者がカッターナイフで切り開くと、その内容物がだらだらと出てきたわ。食道や胃の中ではまだミルクのままで、ただ胃液が混ざって、黄色く、臭くなっているだけだったけれども、腸の中を下っていくにつれてだんだんと液状からどろどろの半固形状になり、いろも濃くなっていき、最後には緑色をした便になっているのよ。玩具修理者は畳の上の消化器内容物を手で一箇所に集めて、色を観察したり、臭いをかいだりしたわ。それから、ピンセットを持ちだしてきて、骨と軟骨を一つずつ拾い集めたの。そして、大きさの順番に畳の上に並べていったわ。  それが終わると、玩具修理者は死猫を持ってきて、毛を抜きはじめたわ。後は道雄と同じように解体が進んでいったけれど、ただ、胃の中身がミルクでなくて魚の肉だったことが違ってたわ。そのあたりから、わたしは気が遠くなってしまって、最後まで見ることはできなかったの。  なぜ気が遠くなったのかしら? 道雄の解体を見たせい? それとも、怪我《けが》と疲労のせいかしら? 今となってはもうわからないわ。でも、道雄の解体を見たせいでなかったとしたら、わたしは冷たい姉なのかもしれないわね。気を失っている間も玩具修理者の声を聞いたような気がしたわ。夢だったかもしれないけれど。 『ぬわいえいるれいとほうてぃーぷ!! もうなのか!?』  目を覚ますと、道雄と猫の修理はもう終わっていたわ。猫は毛繕いをしていたけれど、道雄はまだ眠っていた。ゆっくりと息をしていたから、生きているのは明らかだったわ。玩具修理者はワープロの組み立てをしているところだった。畳の上を見るとワープロやマシンガンの部品に混ざって、内臓や、血管や、筋繊維や、脳の一部が残っていたわ。それが道雄のものか猫のものかは区別はつかなかったけど。玩具修理者はワープロにそれらの生体組織だったものを電子部品と一緒に組み込んでいたわ。  ワープロに生き物の一部を使ったのなら、道雄や猫にもマシンガンやワープロの部品を使ったのかしら?  その疑問は猫の顔を見て解けたわ。じっくり見ないとよくわからなかったけれど、その目はマシンガンの弾丸だったのよ」 「どうしたんだい、それから?」 「家に帰ったわ。もうすっかり、夜がふけていたので、随分と怒られたけれども絶対に本当のことは言わなかったの」 「それはつまり」わたしはすっかり、氷が溶けて生温くなったアイスコーヒーを無理やり飲み込んで話を続けた。「夢だよ、日射病で倒れた時の」 「夢ではないわ」 「じゃあ、聞くけど、その後に会ったのかい、玩具修理者の小屋に行く途中に出会ったおばさんには?」 「それから何度も会ったわ。ただ、わたしを避けているようで、話をしたことはそれから一度もなかったけれど」 「なるほどね。じゃあ、死んだ猫を連れていた女の子には会ったの、それからも?」 「ええ、毎日のように。その子とはそれまでと同じように話をしたり遊んだりしていたわ」 「ところが」わたしは少し勝ち誇って言った。「例の日の話はしなかった。違うかな?」 「確かにそうよ。でも、それはその子が猫の死を秘密にしておきたかったからよ」 「違うね」わたしは幾分安心して言った。「その日に会ってないからさ、その子が出会った話をしなかったのは。そして、おばさんにも会ってない、当然ながら。変な顔してにらんでたからさ、おばさんが話し掛けてこなくなったのは。全部、思いすごしと夢さ」 「夢じゃない!」彼女は興奮して震えだした。「あれは本当にあったことなのよ」 「いや、夢だよ、全部。確めに行けばよかったんだ、玩具修理者の小屋に。何もないか、せいぜい子供好きの変人が住んでるのが関の山だったろう、おそらく」 「行ってみたわ」 「えっ?」 「玩具修理者に道雄を修理してもらった日からしばらくは万事うまくいっていた。でも、一か月ほどした頃から、お母さんの様子がおかしくなったの。 『変だわ! 変だわ! こんなことおかしいわ!』  ある日朝から大騒ぎになったのよ。お父さんは見兼ねて話を聞いたわ。 『どうしたんだ? 何が変なんだ?』 『道雄よ!』  お母さんはヒステリーを起こして、涙をぼろぼろこぼして叫んでいたわ。 『何!? 道雄がどうかしたのか!?』 『道雄が……』 『道雄が?』 『全然大きくなってないのよ! 成長が止まってしまったのよ!』  これはわたしの失敗だったわ。玩具修理者に道雄の修理を頼むとき、成長するように直してくれって頼むのを忘れていたのよ。玩具修理者は正確だけど馬鹿正直すぎるの。言われたことはちゃんと守るけど、常識がないから大事なことを抜かしてしまったりするの。  道雄はお父さんに病院に連れていかれたわ。その晩、お父さんがお母さんに話しているのを盗み聞きしたのだけれども、病院でもたいしたことはわからなかったそうよ。ただ、血液検査によると、成長ホルモンが出てなかったらしいの。それからCTスキャンで脳の状態を調べようとしたらしいけど、コンピュータがデータの処理に失敗して画像が得られなかったということだったわ。きっと、道雄の中の電子部品か何かが影響したのだと思った。いずれにしても暫《しばら》く様子を見る必要があるということを医者から言われたようだったわ。お母さんはそれを聞くと、道雄を抱き締めて泣き崩れてしまったの。  それから暫くは、お母さんは道雄につきっきりだったから、もう一度修理に連れていく機会はなかなかこなかったわ。いっそのことほっといてやろうかと思ったぐらいよ。でも、もし、わたしのせいだってばれたら、どんなせっかんを受けるかもしれないと考えなおして、お母さんが道雄から目を離す機会をずっと待ったわ。そして、何週間かがたったときやっとチャンスが巡ってきたわ。お母さんはノイローゼ状態で何日も眠れない夜が続いていたの。それでつい、うとうとしたのね。わたしは道雄をかっさらうと、大急ぎで玩具修理者のところに連れていったの。そして、玩具修理者にこう言ったの。 『この子を修理して! ちゃんと成長するように!』」 「そして、また、始まったって言うんだな、解剖が」 「多分ね」 「多分? どういうことだよ、多分て? ちゃんと見なかったのかい?」 「ええ、途中で帰ったのよ」  どうやら、話の綻《ほころ》びが見え始めた。前回は最後の最後まで解剖を見ていたのに、二回目は途中で帰ってしまうなんて不自然だ。この部分を追及すれば、彼女の妄想を打ち破れるかもしれない。 「どうして、帰ったんだい? ちゃんと思い出すんだ、なんとしてでも!」 「思い出す必要なんかないわ。ちゃんと覚えているもの。道雄が泣き出したからよ」 「えっ?」 「泣いたのよ。カッターナイフで皮膚を切ったとき大声で泣き出したの。いくらなんでも弟が泣き叫んでるのをじっと見ているのは忍びなかったわ」 「じゃあ、つ、つまり」わたしは口の中がからからになって、再び全身から冷汗が滝のように噴き出してきて、頭ががんがんして、喫茶店がぐるぐる回転しだした。「人間の生体解剖をやったってわけなのか、玩具修理者は」 「そういうことになるわね」 「で、でも殺人罪になってしまうじゃないか、それでは」 「そうかしら? 確かに分解したときに逮捕されれば、殺人罪が成立するかもしれないけれど、組み上げた時点で成立しなくなるわ。殺された人が現に生きている殺人はありえないわ」 「殺人未遂だ」 「それも違うわ。玩具修理者に殺意はなかったもの。修理——つまり、治療が目的だったんだもの。もし、玩具修理者が殺人未遂なら外科医は全員、傷害罪よ」  わたしは考えがまとまらなくなってきた。しかし、ここで挫《くじ》けるわけにはいかない。 「どうなった、それから?」 「道雄はちゃんと成長が始まったわ。医者も不思議がっていたけれど、治ったんだから深刻なことにはならなかった。みんな単純に喜んでいたわ。でも、一か月程したら、また、お母さんが騒ぎだしたのよ。もちろん、前ほどの騒ぎではなかったけれど、道雄はまた病院へ連れていかれたの」 「どうしたんだ、今度は?」 「成長しているのに、髪が伸びなかったのよ。それと爪も。病院では今度も全然原因はわからなかったらしいわ。当然よね。おかげでわたしは、また、こっそり道雄を玩具修理者の小屋に連れていかなければならなかったの」 「二度もか? 殺されたのか、二度も?」  わたしはさっき飲んだコーヒーを全部吐き出しそうになってしまった。  待てよ。落ち着いて考えるんだ。常識を失ってはいけない。まだ、反論できるはずだ。 「全部夢だよ、明らかにね。だって、どうして生き返るんだよ、死んだものが?」 「その腕時計ね」彼女はわたしの手首を指差して言った。「この間止まったって言ってたわね」 「ああ、今は動いてる、修理して」わたしは彼女の言いたいことがわかった。「でも、生きているわけじゃない、この時計は」 「じゃあ死んでいるの?」 「生きているとか死んでいるとかじゃないんだよ。……まあ、死んでいるさ、生命がないという意味ではね」 「その時計には生命がなくて、人間には生命があるとどうして言いきれるの? 時計に生命があって、人間に生命がないかもしれないじゃないの」 「話にならないよ。子供でもわかる、そんなこと」 「じゃあ、教えて。生命って、何? 生きているってどういうこと?」 「それは、つまり、ええと、……生物の先生にでも聞けばいいだろ、そんな難しいことは」 「難しい? いいえ、そんなことはないはずだわ。だって、さっき、子供でも生物と無生物の区別はつくって言ったじゃないの。もう一度聞くわ。生物と無生物の違いはわかるの?」 「わかるよ、そんなこと。人間は生物、猫も生物、コーヒーは無生物、氷も無生物、蛙は生物、蛇も生物、コップは無生物、花は生物、……」 「どうやって、判別するの?」 「えっ?」 「実際に生物と無生物を判別しているのだから、何か判別方法を知っているはずよ」 「そうだな、確かに」  動くものが生物で、動かないのが無生物。これは明らかに間違いだ。自動車は無生物だし……。自分の意志で動くのが生物。植物はどうなる? 成長するものが生物。じゃあ、成長しなくなったら無生物か? そして、鍾乳石《しようにゆうせき》は生物ということになってしまう。繁殖するのが生物。しかし、ある種の腐蝕《ふしよく》はどんどん増えていく。それどころか、近い将来繁殖したり、成長したりするロボットが出現するようになるかもしれないではないか。  いや、もっと簡単な答えがあった。 「生物とは動物と植物だ」 「その答えには何の意味もないわ。『人間とは男と女である』と言ってるのと同じよ。教えて。動物とは何? 植物とは何?」 「動物とはつまり……」  どうしたというのだ? なぜこんな簡単な質問に答えられない? 「動物とは何かを知らないのね。教えてあげるわ。動物とは生物のうち他の生物を食べなければ生きられないもの。植物とは生物のうち他の生物を食べなくても生きられるもの。もちろん、厳密に言えば、そんな単純じゃなくて、例外もいっぱいあるんでしょうけど、それは本質的なことじゃない。さっき、言ったわね、生物とは動物と植物だと。つまり、こういうことになるのよ。生物とは他の生物を食べないと生きられない生物とそれ以外の生物である。これは無意味な言葉だってわかるわね。日本人とは良い日本人とそれ以外の日本人を合せたものである、と言っているようなもので、単なる同語反復に過ぎないのよ」 「じゃあ、そう言う自分はわかってるのか、生物と無生物の違いを?」 「そんなものないのよ」彼女は真赤な唇をぎらぎらさせながら言った。「生物と無生物なんて区別はないのよ。機械をどんどん精密に複雑にしていけばやがては生物に行きつくの。その間になんの境界もないわ」 「違う! 僕には違いがわかるぞ!」 「自分でそう思い込んでるだけよ。物心がつくとすぐに大人から教えられたり、大人の様子を見たりして、一つずつ覚え込んでいくだけなのよ。人間は生きている。猫は生きている。石は生きていない。そう、思い込んでるだけなのよ。何の根拠もないわ。じゃあ聞くけど地球は生きてるの?」 「比喩《ひゆ》的な意味でだよ、地球が生きているというのは」  苦しい言い訳だった。世の中には本当の意味で地球が生きていると主張している人々がいるのを知っている。かれらと地球は生きていないと主張する人々との議論は常に平行線を辿《たど》る。両方とも相手を納得させることができない。両者の言い分とも根拠がないのだ。つまり、地球生命説を唱える人は地球が生きていると思っているだけだし、地球非生命説を唱える人は地球が生きていないと思っているだけなのだ。ある人があるものを生物か無生物かを判断する根拠は判断されるものにあるのではなく、判断する人にあるのだ。  だめだ。相手の論理に巻き込まれている。よく考えるんだ。何かおかしいぞ。彼女の話は何かが抜けているのだ。でも、いったい何が? 「どうしたの、急に黙りこくって? わたしの話を信じる気になった?」  やっとわかった。 「どうなったんだよ、サングラスをしているわけは? なぜ言わないんだ? おかしいじゃないか、もともとその理由を尋ねてこんな話を聞かされたのに!」 「あら、言わなかった? わたし、歩道橋から落ちたときに顔の四分の一がなくなったの」 「じ、じゃあ……」 「そうよ。わたしも玩具修理者に修理してもらっていたのよ。後で気がついたんだけど、気を失っている間だったのね。ごまかすために玩具修理者に偽装コンタクトレンズを作って貰《もら》ったんだけど、それも何年か前にだめになってしまったわ。それからは昼間はずっとサングラスよ。さあ、見て!」彼女は髪をかきあげ天井のライトの光を強く目に当てるようにして立ちあがった。「これでもう逃げ道はないわ! わたしの左の瞳《ひとみ》は強い光を受けると細くなるのよ……猫の目だから」  わたしは髪をかきむしりながら、テーブルに目をふせてこう叫んだ。 「姉さんはいったい何者なんだ?」 「道雄こそ何者なの?」  わたしはどうしても姉の左目を見ることができなかった。 [#改ページ]   酔歩《すいほ》する男《おとこ》  誰もが経験することかどうかはわからないが、わたしは絶対にあるはずの場所にどうしても行けないことがよくある。例えば、何度も足を運んだ店なのだが、ある日、その店に行こうとすると、どうしたわけか、道がわからない。といっても、馴染《なじ》みの薄い街ではなく、毎日のように通っている街でだ。店のだいたいの場所もわかっている。ところが、路地のひとつひとつを確認して見ても、結局、見つからずじまいということがあって、ああ、あの店はつぶれたか、引っ越したんだなと思っていると、次の日にひょっこりと見つかったりする。見つかってみると、到底迷いそうな場所でなく、昨日はいったい何だったのだろう? 狸にでも化かされたのだろうか、としか考えようがない。で、二、三日して同じ店に行こうとすると、また、どうしても行き着けなかったりする。  自分だけのことなのか、誰でも経験することなのか。こんな体験を他の人間もするものなのか知りたい気持ちは強いのだけれども、もし、他人に訊《き》いて、実は自分だけの特殊な体験だったりしたら、自らの欠点をさらけ出すようなことになって、きっと、気まずい思いをするだろうと、今日まで尋ねられずにいる。そんな店の一つでの体験だ。  その店は宴会やパーティーの二次会などでたまに利用するパブだ。予約しないで仲間とふらっと入っていっても、満席で断られたという記憶はない。新しい店を開拓するのも面倒なので、自然と足が向いてしまう。特にその店を目当てに進まなくても、いつのまにか目の前にある。ただ、昼間その辺りを通っても、その店を見かけることもないし、どうしたことか、名前もはっきりしない。仲間に問いただしてみてもいいのだが、そんなことを訊くと自分だけ酷《ひど》く酔っていたと思われそうで、ばつが悪く、ずっと訊きそびれている。  その日も何人かの気の合う仲間と一緒にその店に来ていた。なんの名目で飲んでいたのかは覚えていないが、誰かが転勤になったか、昇格したかそんなことでだったと思う。 「しかし、俺《おれ》たちの同期もかなり人数が減ってきたな」誰かが言った。 「そうかな? やめたやつなんか、ほとんどいないだろう? 転勤でよそにいったのは何人かいるけど」わたしは答えた。 「いやいや。やめていったのは多いぜ」別の誰かが言った。「山田だろ、佐倉だろ、丸尾だろ、野口だろ、それに、藤木もじゃなかったかな?」 「藤木は転勤だ」わたしは訂正した。「あいつはアマゾン支社だ」 「そうだったかな? まあ、とにかく、退職というか、転職していったやつはかなり多いぞ」 「それはつまり」また、誰かが言った。「俺たちが年をとったってことさ。会社勤めが長くなれば、同期の数も減るさ」 「お前はともかく、俺は年寄りじゃないぜ」 「俺とお前は同期だよ」 「俺は早生まれだ」 「でも、浪人してるだろ。俺は現役だった」  そんなふうなとりとめのない話をして、時々馬鹿笑いを繰り返し、何時間かたったころ、何人かが、そろそろ帰ると言い出した。しかし、あいにくわれわれが店に入ってから、雨がどしゃぶりになったらしく、駅まで雨の中を歩いてずぶ濡《ぬ》れになるよりは、タクシー料金を払った方がましだと皆の意見がまとまった。  ところが、わたしだけが他の皆と帰る方向が反対だったため、乗り合わせで帰ることができずに、後回しにされ、ぽつんと一人だけ残されて、最後のタクシーを待つはめになってしまった。  店の中にはもう一人男が残っていて、どうやら、ちらちらと、こっちの様子を窺《うかが》っているようだ。わたしよりはいくらか年配らしいその男は、浮浪者とまでは酷くはないが、勤め人でないことがはっきりわかる、乱れた服装をしていた。顔は皺《しわ》だらけで、つるが曲がっているのか、斜めにしかかけられない眼鏡をなんとかまっすぐにしようと、何度もかけ直していた。酔っている様子ではなかったが、なにかしら、尋常ではない雰囲気が感じられた。  わたしは多少気味が悪かったので、男の様子に気をつけていると、なんと、男は席から立ち上がってつかつかとわたしの方にやってきて、言った。 「あのう……。つかぬことを伺いますが、もしや、わたしを覚えておいでじゃありませんか?」  わたしはその男にまったく心当たりがなかった。 「いいえ。失礼ですが、人違いではないでしょうか?」 「ああ、そうですか。知りませんか。そうですか。失礼しました。いえ、人違いではないんです。わたしはあなたをよく存じあげております。でも、あなたがわたしのことを知らないのなら、知り合いではないのでしょう。すみませんでした」  男は自分の席に戻ろうとした。 「ちょっと待ってください」わたしは男を呼び止めた。「どういうことですか? あなたはわたしをご存じなんですか? 今、そうおっしゃいましたね?」 「はい。わたしはあなたを存じあげております」男はわたしの目を見ずに答えた。「しかし、どうやら、あなたはわたしのことをご存じないようですので……」  男は再び立ち去ろうとした。 「ちょっと、待って下さい」わたしも立ち上がって、二、三歩、男の後を追った。「それはつまり、勘違いだったんですね。そういうことですね」 「勘違いではないのです。でも、どちらでも一緒です。失礼しました」 「一緒ではないでしょう。もし、あなたがわたしをご存じだとしたら、わたしが忘れていることになる。そうなんですか?」 「いいえ。そうじゃないでしょう。きっと、最初から面識がなかったのでしょう。あなたは大学の同窓生の顔を忘れるような人ではないはずです」男は僅《わず》かに微笑《ほほえ》んだ。 「ということは、あなたはわたしと同窓なんですか?」 「絶対とは言えませんが、恐らく違うでしょう。もし、そうなら、親友の顔を忘れたことになる。いやいや、必ずしも親友とは限りませんが、少なくとも同窓生なら、顔を覚えているはずです。だから、わたしはあなたの同窓生ではないと思います」  わたしは混乱した。この男は何を言っているんだ? 全然、意味がわからない。別に酔っているようには見えないが、実はかなりまわっているんだろうか? それとも、酔っ払っているのは俺の方か? 「もう一度、訊きます。あなたとわたしは面識はないんですね」 「はい」男は頷《うなず》いた。「あなたにわたしの記憶がないことが証拠です」 「そうじゃなくて」わたしは少し苛立《いらだ》ってきていた。「わたしのことはいいんです。わたしが訊きたいのはあなたのことです。あなたはわたしのことを知っているのに、わたしはあなたを知らない。これは間違いないですね」 「はい」 「じゃあ、わたしとあなたの関係は何でしょう?」 「さあ、わかりません。きっと、無関係でしょう」男はため息をついた。 「質問を変えますよ。あなたはなぜわたしを知っているのですか?」 「それはあなたが大学時代の親友だったからです」 「さっき、……十秒程前にあなたは、わたしとあなたは無関係だといいましたね」わたしは確認した。 「はい」 「なのに、どうして、大学時代に親友だったというんですか? 親友同士というのは無関係と言ってもいい関係だと思いますか?」 「いいえ」男は悲しそうに答えた。 「では、昔は親友だったけれども、今はもう付き合いがないから無関係だ、ということですか?」 「今も昔も無関係だと思います」 「じゃあ、なぜ、あなたはさっき二人は大学時代、親友だったなどと言ったんです?」わたしは少し苛立ってきたので、強い口調で問い詰めた。 「そんなことは申してません」 「いいえ、確かに言いました。あなたがわたしを知っている理由は二人が大学時代に親友だったからだと」 「はい」男はしっかりと、わたしの目を見て言った。「そう言いました」  こいつは俺をからかっているんだろうか? さっきから、ずっと、のらりくらり、わけのわからないことを言い続けている。こんな奴《やつ》、無視しておけばいいんだ。どうせ、タクシーはすぐに来る。だいたいこの男は俺と話をしたいわけでもないらしい。どちらかと言えばからんでいるのは俺の方だ。ばかばかしい! 「いい加減に受け答えされるのなら、もういいです。ちゃんと話を聞こうとしたわたしが愚かでした」  わたしは席に戻ろうとした。  いや、このままでは気持ちが悪い。あの男の悪ふざけだということをはっきりさせておこう。  わたしは振り返った。 「あなた、わたしの名前をご存じですか? 親友の名前ならわかるはずです」 「血沼壮士《ちぬそうじ》さんです」  名前なんかその気になれば、いくらでも調べはつく。 「誕生日は?」わたしは間を置かずに尋ねた。 「十一月二十八日」男は即座に返した。 「血液型は?」 「AB型」  どういうことだ? 初めから俺をひっかけるつもりで、いろいろ調べていたのか? いったい、何を企《たくら》んでいるんだ? ああ、名前なんか言わせるんじゃなかった。このまま帰ったら、ますます気持ち悪いじゃないか。 「あなたの名前は?」 「小竹田丈夫《しのだたけお》です」  聞き覚えはない。これはいったい、どういうことだろう? やはり、この小竹田と名乗る男が俺を何かの罠《わな》にかけようとしているのだろうか? それとも、酔いのせいで、俺が親友の存在を度忘れしてしまったのか? いずれにしても、もっとはっきりした確証が欲しい。そのためには、質問を続けなければ。 「では、小竹田さん、親友でしか知りようのないわたしについての情報は何かないですか?」 「あなたは中学から高校にかけて詩人を目指していた」  確かにそうだ。しかし、そんなやつはごまんといる。 「大学ノート五冊分の詩が溜《た》まっていた」  ノートの冊数なんかあてずっぽうに一桁《ひとけた》の数字を言っておけば当たるもんだ。何十冊も書きためる奴なんて滅多にいないはずだ。 「だが、大学を出る前に全部焼き捨ててしまった。だから、その詩集についてはあなた以外誰も知らない」  偶然だ。偶然、でまかせが当たったんだ。さもなければ、あの詩集、俺だけの詩集のことが誰かに知られていたということになる。考えられない。家族にも知られていなかったはずだ。それとも、本当にこの男は俺の親友だったのか? 「その詩集の題名は『春の詩』、『夏の歌』、『秋の句』、『冬の唄《うた》』、そして、『無題』」  わたしの頭の中で何かが凍りついた。合理的な説明がつかないかもしれないという予感が走った。吐き気がしてきた。これは現実ではなく、夢なのではないかと疑ったが、やはり現実だった。全身がほてってきたのに、顔から血がひいていくのは自分でもわかった。これ以上、この男とは話せないと思ったが、話を打ち切るのには深入りし過ぎていた。わたしは自分の正気を防衛するために、なんとかこの場から逃げ出したいと、声を出さずに祈った。 「タクシーが参りました」店の入り口から、声がかかった。  祈りが通じたにもかかわらず、わたしはまだ凍りついていた。次々といろいろな可能性が頭の中で渦巻いたが、どうしても納得のいく説明は思いつかなかった。だが、いつまでもこうしているわけにもいかない。タクシーはもう来ているのだ。 「なかなか、面白かったですよ」わたしはその男——小竹田丈夫に、渇いたのどから声を搾り出して言った。「でも、手品としてはもう一つですね。あまりにもとっぴょうしがなくて、信じられないんですよ。しかし、わたしは種に興味があります。どうです。差支えがなければ、明日、またここでお話を聞かせてもらえませんか?」 「それは難しいでしょう。もし、明日あなたとここで会うためには、わたしは徹夜しなくてはなりません」  何を言ってるんだ、こいつは? 「泊まるところがないのですか? わたしのうちに泊まってもらってもいいんですが、家族がおりますので……」わたしは男の胸中を想像して言った。 「もちろんです。そんな失礼なことはできません」 「その代わり、わたしがよく知っているホテルをご紹介いたしましょう」 「宿泊するところがないのではありません」男は平然と言った。「実際、わたしの家はこの近くですので、家に帰ればいいのです」 「じゃあ、なぜ、徹夜などと言われるんですか? ひょっとすると、この店に来るのに何かまずいことでもあるんでしょうか?」 「そんなことではありません。徹夜しないと、多分、わたしは明日ここには来られないのです」 「なぜですか?」わたしはまた苛立《いらだ》ちを感じ始めていた。 「その説明はとても難しいんです。非常にこみいっていて、話すのに時間がかかるうえ、きっと、話しても信じてもらえないでしょう。……一つだけ言わせてもらえれば、明日になれば、わたしはもういないのです」 「いないって、つまり、この街から出ていくっていうことですか? ご旅行か、引っ越しで?」 「いいえ、どこにもいなくなるんです」男は低い声で答えた。 「えっ? じゃあ、ひょっとすると、今夜、あなたは死……まさか……」 「死んだりはしません。わたしの言い方がまずかったようです。あなたからすれば、明日、わたしはいなくなりますが、わたしからすれば、その逆です。明日、あなたはいなくなります。でも、死ぬとかそういうことではないのです」  やはり、この男は俺をからかってるんだ。それとも、新手の詐欺か? 俺をひっかけるために随分前から準備していたとするとどうだ? 俺の名前や誕生日を知っていた理由も説明がつく。 「お客さん、タクシーが待ってるんですけど」すこし、苛立った声がした。 「はい。すぐいきます」わたしは男の方に向き直って言った。「わかりました。それでは仕方がないですね。すっぱり、諦《あきら》めます。わたしはタクシーを外に待たせておりますので、これで失礼いたします」  わたしは店を出て、タクシーに向かった。  これでよかったんだ。あんなやつに関わり合ったら、ろくなことはない。何か理由をつけて金をふんだくられるのがおちだ。  待ちくたびれたタクシーの運転手が粗暴にドアを開けたので、危うくドアに突き飛ばされるところだった。わたしは座席に深く座り込んで腕組みをし、目をつぶって男の言ったことの意味を探ろうとした。  あいつはなぜ詩集のことを言ったのだろう? 俺を信用させるためか? 確かにそうだろうが、詩集のことを知っていたからといって、見知らぬ男のことを俺が大学時代の親友だと信じるとでも思ったのだろうか? いや、あいつは俺と親友だということは否定した。どういうことだ? 「お客さん、どこまで?」  どうやって、あの詩集のことを知ったんだろう? なぜ、俺をターゲットに選んだ? 「やっぱり、やめとくよ」 「えっ?」 「まだ、帰らないでおく」 「ちょっと待ってくれよ。タクシーを呼び出しておいて、その上待たせて、それでやめとくっていうのはないんじゃないか?」 「悪かった。謝るよ」 「謝ってもらったって、仕方ないんだよ。ここに来るまでの時間と待ってた時間の分のロスはどうしてくれるんだよ?」  わたしは財布から紙幣を数枚取り出した。 「これでいいだろう。家まで送ってもらったときと同じだけの金額だ。損はないだろう。いや、ここから家に行くまでの時間が節約できて、その間に別の客を乗せられるんだから、かえって得だろ」 「えっ? いいんですか? いえいえ、そんなつもりで言ったんじゃあないんすけどね。なんだか悪いなあ」 「いや、こっちが無理言ったんだから、もらっておいてくれよ」 「じゃあ、お言葉に甘えて」  運転手は金を受け取ると、さっさと車を走らせて去っていった。  さてと、あの男、俺に損害を出させたのだから、納得のいく説明をしてもらうぞ! なんだか腹が立ってきた。どうして子供みたいに、驚かされてびくびくしなけりゃならないんだ!  わたしは大きな足音を立てながら、店の中に戻った。  男はカウンター席に座って、飲み終わった水割りのコップを、ぼうっと眺めていた。氷が溶けて、コップの底に水ばかりが溜まっていた。 「小竹田さん!」わたしは大声で呼びかけた。  男はびっくりしたように顔を上げた。 「あれ? 血沼さん、タクシーが違ったんですか?」 「忘れ物をしたんで戻ってきたんですよ」わたしは男の隣に座った。「つまり、あなたの話の残りを聞くことを忘れたということです。このままじゃあ、とても気持ち悪い。自分の過去に記憶の欠落があると知らされたんですからね」 「記憶の欠落?」男は不審そうな顔をした。「記憶の欠落なんかないでしょう」 「あなたは、わたしの親友だったとおっしゃったじゃないですか。しかし、わたしにはそんな記憶はない。つまり、これはわたしの記憶が欠落したということじゃないですか」 「いえ、強いて言えば逆です。血沼さん、あなたとわたしは本当に親友ではなかったんです。ただ、わたしの記憶にあなたと親友であったという記憶があるだけなんです」 「ということはつまり」ますます話が訳のわからない方に進んでいき、やはり、帰っておくべきだったと後悔し始めた。「あなたの記憶が間違っているということですか? 偽の記憶を植え付けられたとか」 「わたしの記憶は本物です。しかし、二人が親友であったと言う事実はありません」 「それは矛盾しているようにしか聞こえませんが……。失礼ですが、小竹田さん、あなたの経歴というか、略歴というか、その、プロフィールをお聞かせ願えませんか?」 「よくわからないのです。ただ、あなたがわたしを知らないことがわかったので、あなたと同じ大学に行っていないことははっきりしました」小竹田はわたしの方ではなく、どこか酒場の壁の向こうの遠い場所を見ているようだった。「ああ、もしあなたが、わたしのことを覚えていてくれたら、見知らぬ過去の中に知っている過去の断片が見つかるかもしれないと、淡い期待をいだいたのです。でも、それは結果的にあなたに迷惑をかけることになってしまった」 「わかりました。いや、全然わからないのですが、どうやら、何かが起きているのはわたしの方ではなく、小竹田さん、あなたの方なのですね」 「そうです」男は頷《うなず》いた。「とてつもなくやっかいなことになってます」 「わたしに何かできますか? その、親友だったんでしょう?」  男は頷き、そして、首を振った。 「わたしは孤独だ」 「力になれるかもしれない。精神の問題ですか?」 「そうです」 「治療は受けているのですか?」わたしは解決の糸口を掴《つか》んだことを確信した。 「治療は不可能です」 「なぜわかるのです? 医者にみてもらったことはあるんですか?」 「わたしは医者です」男は絶句したわたしを見て少し笑った。「いえ、医者だったというほうが正しいでしょう。いやいや、きっと医者だったことはないでしょう」 「とにかく、わたしに説明して下さい」わたしはため息をついた。「順序だてて、わかるように」 「血沼さん、あなたにそんな義務はありませんよ」男は微笑《ほほえ》んで言った。「わたしに付き合っても不快な気分になるだけですよ」 「確かにわたしにはあなたの話を聞かなくてはならないような義務はないでしょう。しかし」わたしは男の顔を指差した。「あなたには話す義務があると思う」  男は驚いたようだった。 「それはまたどうしてです?」 「あなたはわたしに話さないでおくこともできたのです。だが、話してしまった。つじつまのあわない話を聞かされて、しかも、それがでたらめではないという証拠も示されて、それで話を打ち切られたら、あなたならどんな気がします?」 「それは」男はゆっくりと考えながら答えた。「気持ちが悪いですな。なんとなく不安を感じるでしょう」 「夜も眠れなくなるかもしれない」 「時間がたてばこんなこと忘れてしまいますよ」 「わたしはこう見えても神経質なんです。ノイローゼになってしまうかもしれないし、一生、不安な日々を過ごすかもしれない」わたしはその場の支配権を握りつつある自分に気づき、さらにそれを確実にしようと、やや、命令口調で言った。「とにかくわたしは、小竹田さん、あなたに、聞かされなければこのまま一生知らずにいられたような不思議を聞かされてしまった。責任をとってください」 「責任と言われても、いったいどうすればいいのでしょう?」 「簡単です。納得のいく説明をしてくれればいいんです」 「わたしが本当のことを話したとしてもあなたには納得できないでしょう」 「とにかく、話してください。納得できるかどうかは話を聞いた後でわたしが決めます」 「しかし……」 「ぐずぐずしていると閉店になってしまいます。さあ、話して下さい」 男の話が始まった。  わたし——小竹田丈夫——とあなた——血沼壮士——は二人とも同じ年に、同じ大学の同じ学科に入学しました。同郷ということで二人はすぐに仲良くなりました。特にクラブなどには入っていませんでしたが、年に何回か一緒に旅行にいくような、共通の仲間たちもいました。学部時代の四年間はわたしもあなたも特に目立つような学生ではありませんでした。勉学の面でも学科のトップクラスではありませんでしたし、スポーツに秀でていたわけでもなかったからです。学業に対してそれほど興味を持っていたわけではないのですが、二人とも何となく就職するのが嫌で、大学院に進学しました。今から思い返してみると、大学の四年間で真剣に勉強したのは大学院の入試勉強の時だけだったような気がします。大学院に入ってからも二人は研究室が同じだったこともあって、いつもくっついてふらふらしていました。  そんなある日、研究室に四年生が配属されました。わたしとあなたの一年下になる連中です。毎年、五月になると配属が行われるのですが、実際に四年生が研究室によく顔をだすようになるのは大学院入試が終わる夏休み明けだったので、二人とも、新しく配属された四年生の中に女子が入っていることに気がつきませんでした。その娘——菟原手児奈《うないてこな》の存在に気づいたのはワープロで書かれた新歓コンパの案内を見た時です。  もちろん、わたしだって、その時まで一度も女性とつき合ったことがなかったわけじゃありませんでした。しかし、元来遊び好きな方ではなかったので、数は決して多くはありません。そして、それらのつき合いは決まって、数か月で終わってしまいます。と言っても、はっきりと別れるわけではなく、なんとなく会う回数が減って、自分でも気づかぬ間に別れているのです。いわゆる自然消滅ってやつです。そんなつき合いは経験豊富な友達に言わせると、恋愛をしたうちに入らないそうです。でも、それでは自分がかわいそうなので、不完全ではあったけれども、恋愛をしたのだと努めて思うことにしていました。  そんなわたしでしたが、新歓コンパで、偶然手児奈の横に席が決まった時、何か霊感のようなものを感じました。そして、あなたが、少し離れた席から、じっと手児奈を見ているのに気付いた時、わたしは急がなくてはいけないことを悟りました。次はあなたの方にチャンスがくるかもしれなかったからです。なぜかはわかりませんが、他の男達の挙動は気になりませんでした。あなただけが気がかりでした。これも霊感だったのかもしれません。  コンパが始まってしばらくの間は、ちらちらと手児奈の方を見るばかりでしたが、やがて、意を決して話しかけました。 「う、菟原さん」わたしの声はひっくり返って一オクターブ高くなりました。「あの、菟原さんの名前、下の名前、変わってるけどなんて読むの?」  何と読むのか、わたしはもちろん知っていましたが、きっかけのために訊《き》いてみたのです。 「え?」手児奈は急に呼びかけられて、少し驚いたようでした。「あ、『てこな』って読むんです」 「何か意味はあるの?」 「昔の本に出てくるんです。伝説か何かの。でも、もう変わってしまっているかもしれませんけど」  わたしは手児奈の返事の意味がわかりませんでした。何が変わってしまっているというのだろう? 本の内容が改定されて変わったということだろうか?  手児奈の言葉の意味を考えてしまったことで、会話はとぎれてしまいました。わたしはしばらく躊躇《ちゆうちよ》してから、大きく息を吸い込み、もう一度話しかけました。 「菟原さんって、名字も難しい漢字だね」 「ええ、よく言われるんですけど、『菟』はネナシカズラという意味です。父の実家のある田舎では村中、名字は菟原だらけらしいですよ」 「へえ、お父さんの実家って何県?」  手児奈は眉《まゆ》をひそめて考え込みました。 「御免なさい。わたし、地理には疎いんです」 「疎いって、お父さんの実家だろ」 「変ですか? 前は覚えてたんですけど、一々覚え直すのがおっくうになってしまって……」 「いいや、全然、変じゃないよ」わたしは手児奈の言葉の意味は考えずに、次の話題を必死になって探しました。「菟原さん、趣味は何かな?」 「石のにおい」 「えっ!?」 「石のにおいが趣味です」 「石って、何か特別な鉱物か何か?」 「うううん。道によく落ちている石です」 「でも、普通の石はにおいなんかしないよ」 「ああ、そうだったんですね。わたし、そうなっていたなんて、気づかなかったんです。そう、もう、石のにおいはないんですね」  手児奈の瞳《ひとみ》が悪戯《いたずら》っぽく緑に輝きました。  ああ、俺《おれ》をからかっているのか。あまりしつこく聞くと嫌われるぞ。やっぱり俺、ユーモアのセンスがないのかな? ここは一つ洒落《しやれ》たアメリカン・パーティー・ジョークでもとばして、冗談がわかるところをみせるべきかな。だけど、馬鹿話をいくら続けていても埒《らち》があかない。この辺で核心に迫った質問をしてみようか? 「菟原さんて、今、その……彼氏はいるのかな?」 「どうして、そんなこと訊くんですか?」手児奈は真顔で聞き返しました。  しまった。嫌われたかな? こんな時、どう答えたら、かっこいいんだろう? 「特に理由はないけど、ちょっと、知りたかったんだよ」  俺、かっこ悪いぞ。 「わたしに恋人がいるかどうかを『ちょっと』知りたかったんですか?」 「いやぁ、あの、気になったからだよ、菟原さんのことが」  手児奈はちょっと首を傾げてから言いました。 「小竹田さん、わたしのこと好きなんですか?」  手児奈がその言葉を発した瞬間、騒がしかった座が静寂に包まれました。 「そんな好きとか……」 「嫌いなんですか?」 「す、好きだよ」ああ、言っちまったよ、俺ってやつは。こんな場所で。こんな状況で。 「わたしは普通です」手児奈はおろおろ見守る皆の中で淡々と言いました。「だって、会ったばかりですもの。だから、嫌いでもありません」  一同は爆笑につつまれました。あなたも一緒に大笑いしているのを見て、わたしはなぜか安堵《あんど》しました。 「あの、もし、嫌じゃなかったら、明日映画に行かないかい? 試写会の券があるんだ。『アット・ザ・マウンテン・オヴ・マッドネス』って言うんだけど」今晩中に、後輩が持っていたあの試写会の券を、ぶんどって置こう。 「ああ、あの映画はなかなかおもしろかったですね」 「え? 君、もう観たの? 一般試写会は明日が最初だよ。いったい、どこで観たの?」 「ロードショーで」 「そんなはずはないよ。きっと、別の映画と間違えてるよ」  突然、手児奈は甲高く笑いました。 「怒ったのかい?」わたしは不安になりました。せっかくのチャンスを些細《ささい》な間違いにこだわって台無しにしたんじゃないだろうか? 「そんなつもりじゃないんだ」 「いいんです」手児奈の目がまた緑に輝きました。「そうですね。試写会の前の映画をロードショーで観たなんて、変ですね」そして、再び笑った後、わたしに微笑んで言いました。「待ち合わせ場所はどこにします?」  それが二人のつき合いの始まりでした。それからは少なくとも週に一度、多い時は五、六度もデートをしました。自他共に二人は恋人同士と認める関係になったのです。  手児奈は驚くような美人でこそありませんでしたが、童顔で、男性なら誰しも心安らぐような容姿をしていました。スタイルも抜群と言うよりはややぽっちゃりタイプでしたが、それがまた男心をくすぐりました。そんな手児奈を連れて、わたしはキャンパスを誇らしげに闊歩《かつぽ》していました。 「この花の匂《にお》い、音階で言うと、ラのシャープね」手児奈はよくそんなことを言いました。 「ラのシャープ? どういうこと? この花の匂いを嗅《か》ぐと音が聞こえるの?」 「うううん。そうじゃないわ。この匂いとラのシャープが一緒なのよ。小竹田さんはそうじゃないの?」 「え? だって、音は音、匂いは匂いだよ。変なこと言うなよ」わたしはあまり手児奈が真剣にいうので、笑ってしまいます。 「嫌ね。人のこと、馬鹿にして」手児奈は少し、可愛らしくふくれます。「この間もそうだったわ。美味《おい》しいチョコレート・パフェの店を見つけたから、その味を教えたら、大笑いしたわね」 「だって、手児奈がパフェの味は緑色だったっていうから……」 「緑色じゃなくて、赤みの紫って言ったのよ」 「それにしても変な色のパフェだと思ってさ」 「パフェの色は普通のパフェ色だったわ。パフェ色って言うのはチョコレート色とクリーム色と果物色が混じった色よ。でも、味は赤みの紫だったわ」  わたしは爆笑しました。  でも、手児奈はきっと、本当に匂いを聞き、味を見ていたのでしょう。色とか音とか、そのようなことをいちいち分類するという常識に捕らわれない、自由な心をもっていたのだと今では思っています。わたしは不思議な手児奈にますます魅せられていきました。 「手児奈、前に言っただろ。友達を作った方がいいって」わたしは優しく笑いかけます。「一人ぐらいはできた?」 「ええ。わたし、別に友達なんか欲しくなかったから平気だったけど、小竹田さんがそういうから、別の学科だけど、同じ講義をとってる子と友達になったの。みろちゃんて言うんだけど、テニスしてるらしいわ」 「どうやって、友達になったの?」 「普通によ。授業の後、席の所まで行って、『わたし、菟原手児奈。お友達になりましょう。あなたの名前は?』って言ったの」  わたしは再び爆笑しました。そして、手児奈を抱き締めました。今でも、あのころのことを思いだす度に、思うのです。あの時代がわたしの人生の中で最も美しかったのではないかと。 「死ぬまで、君を離さないよ」 「ほんとに?」 「ああ、本当だ」 「死ぬまで?」 「ああ」 「誰が死ぬまで?」 「?」 「わたしが死ぬまで? 小竹田さんが死ぬまで?」 「そんなことは意味がないよ。君が死んだら、僕も死ぬ」 「小竹田さんが死んでも、わたしは死なない」  わたしは手児奈の言葉に微《かす》かに震えました。 「大丈夫。小竹田さんは死なない。そして、わたしは死んでも死なない。だけど、可哀そうな小竹田さん」それから、わたしの耳元に唇を近付けて言いました。「嘘《うそ》よ」  手児奈は決して派手好きな性格ではありませんでしたが、今言ったように魅力に溢《あふ》れていましたから、わたしの目を盗んで、男達が言い寄るようなことがよくあったようです。もちろん、手児奈は簡単に二股《ふたまた》をかけるような女ではありませんでした。彼女は、無知の一歩手前と言えるほどの純粋さを持っていましたが、それと同時に生来の本能としか思えないような他人の心への影響力も持っていました。その力を無意識に使っていたのでしょう。いつも、彼等をうまくはぐらかして、適当にあしらっていたようです。しかし、わたしは若かったのです。相手の恨みを買わないようにうまく男達に受け答えする手児奈に、いつの間にか、わたしは嫉妬《しつと》の炎を熱く深く燃やし始めていたのです。それは最初は小さな炎でした。男に言い寄られる手児奈を見るたび、わたしはわざと見ないようにし、足早に立ち去りました。けれども、そのようなことがあるたび、こころの中の炎は確実に大きくなっていきました。  そして、ある日、学内の道でいつものように男からデートを申し込まれ、断っていることを相手に悟られないように、実は紛れも無く断っている手児奈を見かけた時に、ついにわたしの中の原始的な魂が爆発しました。  手児奈、おまえは本当に誘われたくないのか? ならば、もっと強く、あからさまに断れ! どうして、おまえは他の男に言い寄られている時も、俺の魂に呼びかけつづけるんだ? 俺に戦ってほしいのか、おまえをめぐって。では、望みを叶《かな》えてやろう。  男と話している手児奈の手を後ろから強引に引っ張って、こちらの方を向かせました。手児奈は少し驚いたようでしたが、手を引いたのがわたしだとわかって、悪戯《いたずら》っぽく瞳《ひとみ》を輝かせました。 「何だ。小竹田さんじゃない。もう、びっくりしちゃったわ」  わたしは彼女の呑気《のんき》な言葉に対しては全く呼応しない、深刻で、怒気を含んだ言葉を吐きました。 「おまえ、いったい、こいつと何の話をしていた? デートの約束か?」 「えっ? 違うわよ」手児奈は少し驚いたようでした。「この人、坂森さんていって、みろちゃん——この間、言ってた友達のみろちゃんと同じテニス部の人でね、みろちゃんといっしょにちょっと食堂で話をしたことがあるから……、それで、今日、わたしを見かけて、話かけてくれただけ……」  手児奈はその坂森という男をちらちらとわたしと交互に見ながら、ばつが悪そうに説明しました。今から思うと一番可哀そうだったのは、坂森だったかもしれません。ちょっとした軟派心で、ガールフレンドの知り合いに声をかけただけなのに、いきなりその女の男が現れて、女を詰問するなんて状況はけっしてかっこいいもんじゃありません。言わばまったくその気がないのに美人局《つつもたせ》にあったようなものです。しかも、周りの目は恋人のいる女を横取りしようとした男と見ているに違いありません。彼は一刻も早くこの場から逃れたい。できるなら、仮面を付けてでもこの場を走り去りたいと思っていることは明らかで、手児奈を見るわけでもなく、わたしを見るわけでもなく、ただぼうっと、遠い目をしていました。  わたしは彼には目もくれず、——話しかけてやった方が少しは彼も救われたでしょうが——手児奈の両肩に手を置いて、揺さぶりながら言いました。 「また、言いわけか! いつもだ! 何回もだ! 言いわけ! 言いわけ! 言いわけだ! そんなことで、俺が騙《だま》されると思ってるのか? ちゃんと本当の事を言ってみろよ!」 「わたしは何も言いわけなんか言ってないわ! ありのままの真実を言ってるだけよ!」  本当はわたしもわかっていました。手児奈に罪が無い事を。よしんば、本当に手児奈が他の男とデートをしたとしても、結婚しているわけでも、婚約しているわけでもないわたしにそれを咎める権利などなかったのです。しかし、わたしにはどうしても我慢できなかった。わたしの手児奈が他の男と話している。そう思うだけで血が逆流する思いでした。ましてや、その現場を目の前にしたら、自分でも己の異常さは十分に意識しながら、押さえる事など不可能でした。そう。わたしは若かったのです。 「喧《やかま》しい! おまえがふにゃふにゃしているから、こんな男に付け込まれるんだ! もっと、毅然《きぜん》とした態度をとれ!」  坂森はさすがに気分を損ねたようでした。無理もありません。突然、見も知らぬ輩《やから》にこんな男呼ばわりされたのですから。 「ちょっと、待ってくれよ。あんた、菟原さんの何なのかは知らないけど、ちょっと、言い過ぎじゃないか? 俺が勝手に声をかけたんだよ。菟原さんは悪くないよ」  坂森の言うことはもっともでした。 「随分、手児奈の肩をもつじゃないか」わたしは嫌な男でした。「まさか、もう出来てるんじゃないだろうね?」  坂森は拳《こぶし》を上げました。そして、手児奈はその腕を押さえました。ああ、あのまま殴られていた方がよかった。わたしは坂森の腕を掴《つか》む手児奈の様子を見て、ますます、嫉妬にかられました。  どうして、手児奈、おまえはその男に触れるんだ?  わたしとは逆に、坂森はなんとか怒りを押さえたようでした。 「あんたなあ」坂森はわたしを睨《にら》みました。「菟原さんはそんな安っぽくないぜ。あんたには勿体《もつたい》ないよ」  わたしが坂森に掴み掛かろうとするのを手児奈が全身で阻止しました。わたしはわけのわからないことを喚《わめ》き続けました。坂森は手の施しようがないとジェスチャーでわたしたちを取り囲む野次馬に自分の無実を訴え、さっさと立ち去ってしまいました。  わたしは手児奈の体を振り回し、とうとう地面に投げ捨てました。 「男に逃げられて残念だったな」  手児奈は泣いているようでした。そして、立ち上がると、きっとわたしを見ました。 「もう、こりごりだわ! わたしは小竹田さんの持ち物じゃないのよ!」 「ついに白状したか! 誰のものになりたいと言うんだ!?」  手児奈は肩を震わせていました。 「限界だわ」  彼女は野次馬を押し退けてわたしから離れて行きました。わたしはこともあろうに彼女の背中にさらに追い討ちをかけました。 「おまえみたいな尻軽《しりがる》女、こっちから願い下げだ。おまえじゃなくても、女なんかいくらでもいるんだからな!」  手児奈のような女はいませんでした。  わたしは幾晩も痛烈に後悔し、悶《もだ》え苦しみました。しかし、手児奈からはもう連絡はありませんでした。わたしの方から頭を下げれば良かったのです。でも、もはや、どんなに謝ろうとも手児奈の許しは得られないと思い込んでいたのです。  季節は移り変わり、半年がたちました。わたしは新しい彼女を作ることもせず、毎日、手児奈のことばかり考えていました。大学にいるときはいつも手児奈の姿を探し求め、手児奈の姿を認めると、わたしは決して近付こうとはせずに、遠くからじっと見つめていました。手児奈が一人でいたり、女の友達といるときはほっとし、神に感謝しました。それまで、全くの無神論者だったわたしがです。運悪く、手児奈が男と話しているのを見かけたりしたら、わたしは文字通り、胸をかきむしりました。通りすがりの人たちはわたしの呻《うめ》き声に驚き、目を見張りました。ただ、手児奈はわたしと別れてからも特定の恋人を作ったような気配はありませんでした。わたしはそのことによって、自分を励まし、もう一度手児奈とよりを戻すことを夢見ていました。そして、もし手児奈との仲が回復したら、その時は決して嫉妬深くはならないと心に誓ったのです。なのに、ああ、わたしはあの日、見てしまったのです。  昼食をとった後、わたしは研究室に向かってぶらぶらと歩いていました。すると、逆方向から、あなたと手児奈が歩いて来るではありませんか。にこやかに語らい合う二人を見て、わたしは思わず、道端の木陰に身を隠しました。二人はわたしに気づかなかったようでした。そのまま、わたしが潜む木の横を通り過ぎて食堂に向かっていきました。きっと、遅い昼食を二人で食べに行ったのでしょう。  わたしは今度こそ本当の嫉妬に狂いました。この嫉妬に比べれば、今までの嫉妬は小鳥の羽のように軽いものでした。よりにもよって、手児奈はわたしの親友とつき合っていたのです。手児奈の表情で二人の仲は察しがつきました。  その日の夜、わたしは下宿にあなたを呼び出しました。 「血沼、いったい、どういう気だ?」 「何のことだ?」あなたは特に緊張などはしていない様子でした。「なんだか、機嫌悪そうだな」 「手児奈のことだ」 「手児奈?」あなたは惚《とぼ》けて言いました。「手児奈がどうした?」 「おまえ、最近、手児奈につきまとってるだろ!」 「人聞きの悪いこと言うなよ。つきまとってるんじゃなくて、つき合ってるんだよ」 「そんなはずはない!」 「いや、そうだ。手児奈だって喜んでいる」 「手児奈は俺《おれ》の彼女だ」 「え? 手児奈からはもうおまえとは別れたと聞いてるぜ」あなたは言いました。「ということは、どちらかが勘違いしていることになるけど、多分、間違えてるのは、小竹田、おまえの方だ。手児奈とつき合い始めて三か月になるけど、手児奈が二股かけているような気配は全然ないもんな」 「当たり前だ。手児奈は二股かけたりしない。あいつはそんな女じゃない」 「どうやら、これで誤解も解けたようだな。じゃあ、俺は帰るよ。あっ、そうそう」あなたはわたしの机の引き出しを勝手に開けて、五冊のノートを取り出しました。「これは返してもらうよ。手児奈に見せてやるんだ」  出ていこうとするあなたをわたしは呼び止めました。 「ちょっと待てよ。血沼、卑怯《ひきよう》だぞ」 「なんだと?」あなたは少しむっとしたようでした。「なんで俺が卑怯なんだよ?」 「だって、逃げたじゃないか」 「逃げた? いつ、逃げた? 俺が何から逃げた?」 「手児奈を自分の女にしたかったら、勝負しろ」 「小竹田、おまえ、自分の言っていることがわかって言ってるのか? 勝負って何だよ? 勝負はもうついてるんだよ」あなたは面倒くさそうに言いました。「だいたい、勝負も何も手児奈を振ったのはおまえのほうじゃないか?」  わたしはあなたの胸倉を掴んで、壁に叩《たた》きつけました。 「誰に聞いた!?」わたしはかすれた声で言いました。「俺が手児奈を振ったと誰に聞いた?」 「誰でも知ってるよ」 「俺は『誰が知ってる?』と言ったんじゃないぞ。おまえは誰から聞いたんだ?」  あなたは黙って横を向きました。わたしもそのままの態度で無言のまま、あなたを睨み続けました。最初はあなたも強気な様子でしたが、そのうち、あなたは根負けしたのか、俯《うつむ》いて、消え入りそうな声で言いました。 「手児奈だ……」  わたしの頭の中は光で満たされました。  そうか。よかった。よかった。手児奈は俺を振ったわけではないんだ。だって、俺に振られたと言っているじゃないか。ということは俺に未練があるんだ。なあんだ。そうか。もちろん、俺は手児奈を振ってはいない。手児奈が勝手に振られたと思い込んだんだ。なんだ。じゃあ、二人とも相手を振ってないんだ。ただ、二人とも、相手に振られたと思い込んだだけなんだ。そうだ。そうだったんだ。  わたしはげらげら笑い出しました。 「おい、小竹田、いったいどうした?」あなたは呆気《あつけ》にとられたようでした。 「いやあ、残念だ。実に残念だ」わたしは涙を滝のように流して笑いました。「この勝負、おまえの負けだ」 「藪《やぶ》から棒に何を言うんだ?」 「だって、手児奈はまだ俺を愛してるんだよ」 「おまえ、本気か?」 「ああ」わたしは哀れみの目であなたを見ました。「血沼、おまえも可哀そうなやつだなあ」 「馬鹿馬鹿し過ぎて話にならん」 「じゃあ、こうしよう。手児奈の気持ちをはっきりさせるんだ」わたしはまだ爆笑していました。「これで、勝負が決まる。手児奈に伝えてくれ。『小竹田はまだおまえを愛している』これでOKだ」 「おまえが何を言っているか、全然わからない。手児奈にそう伝えたからと言って、何がどうなると言うんだ?」 「手児奈は今の俺のような状態になる」  あなたはしばらく腕組みをして考え込み、それから、ゆっくりと言いました。 「わかった。手児奈にそう伝えよう。しかし、俺はなんの保証もしない。ただ、伝えるだけだ。そして、彼女の反応をおまえに教えよう。ただし、俺は単なるメッセンジャー・ボーイじゃないから、彼女におまえとよりを戻すようなことはやめるように説得するし、俺自身、手児奈を愛していることを伝える。これでいいか?」  わたしは笑い続けているため返事ができず、ただ頷《うなず》くだけでした。  次の日はあなたの方から下宿にやってきました。かなり、深刻なあなたの顔をみるだけで、わたしは有頂天になってしまいました。 「はしゃぐのはまだ早いぞ」あなたは苦々しげに言いました。「手児奈は返事をしていない。俺をとるとも、おまえをとるとも」 「どういうことだ?」わたしは一日ぶりに高揚した精神状態から覚めました。「手児奈は何と言ったんだ?」 「手児奈は俺一人には返事はできないといった。返事は今日、二人の前でするそうだ」 「妙だな」 「ああ、妙だ」あなたは相槌《あいづち》を打ちました。  二人は黙りました。しかし、先に我慢できなくなったのはあなたの方でした。 「小竹田、俺はおまえのことを軽く見ていた。どうやら、俺の方が分が悪いようだ」 「どうして?」わたしは聞き返しました。 「もし、俺の方を愛していたなら、その場で言ったはずだ」 「俺にもそのことをはっきりと伝えたかっただけかもしれない」 「二人同時に伝える必要はないだろう」あなたは独り言のように言いました。「もし、俺を愛しているのなら、俺にだけそう言って、改めて三人で会えばいいはずだ」 「そう言わなかったのか?」 「言わなかった」  そして、また沈黙。今度はわたしが我慢できなくなりました。 「俺が有利だとも思えない」 「どうして?」あなたは不安げに尋ねました。 「もし、まだ、俺のことを愛しているのなら、まっ先に俺に伝えるはずだ。三人で会う必要があるか?」 「俺に本当のことを言い辛かったのかもしれない」 「それでも、隠れて俺に話してくれれば済むことだ」わたしは言いました。 「電話あったんだろ?」 「ない」  沈黙。 「本当に妙だなあ」 「ああ、本当に妙だ」  二人は互いの目を覗《のぞ》き込み、偽りの影を探り出そうとしましたが、その甲斐《かい》もなく、二人とも抜け駆けはしていないことがわかりました。 「となると」わたしが言いました。「どういうことだろう?」 「やっぱり、今日、ちゃんと、どちらが好きかを言うんじゃないか?」あなたはもう�愛�という言葉を使いませんでした。 「つまり、昨日の段階では決められなかったと言うことかな?」 「で、どうして、今日になれば、決められるんだ?」 「決められないってことは両方好きってことだろう?」わたしは呟《つぶや》きました。 「両方とも嫌いって線もあるぞ」 「俺を嫌いなのはわかる」わたしは頭脳をフル回転させました。「しかし、なんでおまえのことも嫌いになるんだ?」 「おまえ、えらく、弱気になったな。昨日は自信たっぷりに『手児奈が愛してるのは俺だ』って言ってたのに」 「俺、そんなふうに言ったか」 「一字一句同じじゃないけど、そんなふうなことを言ったぞ」あなたは言いました。 「……だから、俺が言いたいのは、もし、まだ手児奈が俺を好きだとしたら、血沼、おまえを嫌いになることは不自然じゃない。……わかるな」 「ああ」 「逆に、俺のことが嫌いなら、ここで急におまえを嫌いになる理由がない。つまり、二人ともに愛想を尽かされる事態は考えにくい」わたしは自信なく尋ねました。 「ああ、ひょっとしたら、おまえの伝言をわざわざ伝えに来るようなうじうじしたところが嫌《いや》なのかもしれないぞ」 「それはないだろう。手児奈の性格からは、そんな反応は考えにくい」 「そうだな。それはないだろうな」あなたも自信なさげでした。 「じゃあ、やっぱり、両方好きなのかな?」わたしはため息をつきました。 「今日、俺たちに『二人とも好き』って言うのか?」 「しかし、それは意味ないなあ」 「『二人とも好きで決められないから、このまま三人で付き合おう』か?」あなたはやけくそ気味に言いました。 「俺、そういうのは嫌だなあ」 「俺もできれば避けたい」あなたもため息をつきました。 「なら、手児奈もそんなのは嫌なんじゃないだろうか?」 「うん、根拠は特にないが、そうあって欲しいから、そうだとしておこう」 「じゃあ、なんで今日三人で会うんだ?」  話はぐるぐると四周目ぐらいに入りました。 「話し合うためだろう」あなたは言いました。 「どっちが手児奈と付き合うかを? そういうのは話し合いで決まるものかな?」 「決まったとしても、付き合えないと決まった方は納得できないよな。小竹田、おまえは納得できるか?」 「できない。じゃあ、話し合いじゃなくて、殴り合いで決めるか?」わたしは適当に言いました。 「手児奈は腕っ節の強い男が好きなのか? そんな様子はなかったけどなあ」 「……さっきの両方嫌いってやつだけどな」わたしはおずおずと言いました。「別の男ができたってことはないかな?」 「まあ、ないとはいえないが、偶然、この時期にそんなに出会いが重なるかな?」  というふうに、二人の会話は何時間もどうどう巡りを繰り返しました。 「おい、血沼」わたしはふと気づきました。「おまえさっき、手児奈は今日、二人に返事するって言ったな」 「ああ」 「おい、何時にどこでだ? まだ、聞いてないぞ」 「何って……おおお!!」あなたは絶叫しました。「あと、五分しかない」 「なんだと!? 場所はどこだよ!?」 「駅のホームだ」 「そりゃまた、奇妙な場所……」  わたしはその瞬間嫌なことを考えました。そして、あなたも同じ嫌なことを考えたことは目の動きで見て取れました。二人はほぼ同時に駅に向かって駆け出しました。  約束の時間に十分ほど遅れて到着した時、駅には黒山の人だかりができていました。その人だかりを見ただけでわたしは血の気がすうっと引いて、歩けなくなり、その場にへたりこんでしまいました。あなたはと言えば、何か意味のわからないことを叫びながら、改札口を突破しようとして、駅員に押し止められていました。あなたがおいおい泣きながら、駅員を殴りつけたので、ついにホームの方から警官が駆け付けてきました。わたしはなんとか、這《は》いずりながら、改札口の所に行き、警官に訊《たず》ねました。 「何かありましたか?」 「事故です。しばらく、関係者以外の方は入れません」  あなたは獣のように叫びました。 「あの……女の人ですか?」わたしはなんとか叫ばずに、訊ねることができました。 「はい」 「大学生風の?」  警官の顔色が変わった。 「心当たりでもあるんですか?」 「今日、ここで待ち合わせをしていたんです。この男とわたしと手児奈が……」わたしは声をつまらせ、そして、やはり獣のように叫びました。  手児奈は幾つもに分かれていました。警官たちは最初、わたしたちに手児奈を見せるのをためらっていましたが、遅かれ早かれ身元を確認する必要があったので、結局見せてくれました。わたしたちは警官の制止にも拘《かか》わらず、手児奈の体にすがって、おいおいと泣き続けました。二人とも着ていた服は手児奈の血で、真っ赤になってしまいました。あなたは突然、手児奈の胴体の一部を持って、走り出しました。すぐに警官たちは追いかけましたが、あなたの行動があまりにも予想外だったため、動転して足がもつれていたようでした。やっと追いついても、手児奈をあなたから引き離すのは、一苦労でした。 「手児奈ー。手児奈ー」あなたは血まみれの胴体に接吻《せつぷん》を続けながら、泣き続けました。今考えれば、異様な光景ですが、その時は別に異様だとは思いませんでした。わたしだって、手児奈の足を頭に繋《つな》いで、生き返らせようと必死だったのです。  目撃者の話によると、手児奈はふらふらとよろけるように電車が到着する間際の線路に落ちたそうです。まるで、吸い込まれるようだったということでした。警察の調べでは遺書はなかったそうですが、待ち合わせをしていた理由から考えると、自殺の線も完全には消えないので、事故と断定するのにはかなり日にちがかかりました。おそらく、積極的な断定ではなかったのでしょう。自殺と断定できないから、事故としただけだったのだと思います。今となっては真相は知りようがありません。  通夜の時も葬儀の時も手児奈の両親はかなり取り乱していましたが、わたしとあなたの取り乱し方の方が酷《ひど》かったと、後で友達が言っていました。わたしたちは何を考えたのか手児奈の棺《ひつぎ》を持って逃げ出そうとしたらしいのです。そのことは全く記憶にないのですが……。  葬儀の後もひと月ほどは二人ともふぬけになって、ただ、風のままにただようような日々をおくっていました。正直言って、その頃の記憶は殆《ほとん》どないのです。ただ、後になって思い返してみると、ふらふらと雑踏の中を歩いていたり、道端に座っていたり、ゴミ箱をあさっていたり、地下街で眠ったり、時々は下宿に帰っていたような気がぼんやりとします。  そして、ある日、わたしは自分を取り戻しました。下宿のごみの山に埋まっている自分を発見したのです。すぐには体は動きませんでした。何日間、こんな状態だったのかもわかりませんでした。わたしは大事そうにペットボトルを抱きかかえていました。中には何か薄い色のついた液体が入っています。自分の尿を出しては飲みを繰り返していたのではないかと思うと軽い吐き気を催し、トイレに駆け込みました。  トイレから出て、ごみ捨て場のような部屋を見ながら、いったい何があったのだろうかと、考え込みました。しばらくしてから、手児奈のことを思い出し、嗚咽《おえつ》し、泣き疲れたころ、ふと、あなたのことを思い出しました。わたしは泥と血に塗《まみ》れた服をまとったまま、あなたの住む学生アパートへと走りました。  あなたの部屋の鍵《かぎ》は、かかっていませんでした。 「血沼!」わたしは叫びながら、部屋に飛び込みました。  部屋の中は意外にもほとんど、乱れていませんでした。いや、乱れていたことは乱れていましたが、それは男子学生の部屋としては通常の乱れ方でした。あなたの姿は見えませんでしたが、風呂場《ふろば》の中から、水音が聞こえてきました。  わたしは本能的に恐怖を感じましたが、体を引き摺《ず》り、風呂の戸を開けました。  むっとするような悪臭の中、あなたは、真っ黒な水の湯船の中に腰までつかって、腐った魚の鱗《うろこ》を一枚一枚|剥《は》がしていました。 「血沼!」わたしはあなたの肩を掴《つか》み揺り動かしました。「気を確かにもつんだ。俺《おれ》がわかるか? 小竹田だ!」  あなたは最初、不思議そうにわたしの顔を見ていましたが、そのうち、徐々に瞳《ひとみ》に光が戻ってきました。  「小竹田? 小竹田か!? いったい、どうしたんだ、その格好は?」あなたも自分を取り戻したのです。 「ずっと、夢を見ていたんだ。二人とも」 「夢?」あなたは首を傾げて考え込みました。「ああ夢な。全部、夢か。あれは夢か」  あなたは幸福そうな顔をしました。 「いや、あれは夢じゃない」  あなたは絶叫して再びこころの底に帰っていこうとしました。 「やめろ!」わたしは叫びました。「そんなことをしていてはいけない。人生はまだ始まったばかりじゃないか」 「いいや。俺の人生は終わった。手児奈は俺の人生だった」あなたはわたしを睨《にら》みました。「おまえだ。おまえのせいだ」 「何を言うんだ?」 「俺とおまえの間で手児奈は板挟みになったんだ」 「自殺ではなかったんだ。事故だったんだ」 「同じだ。ホームから転落するほど手児奈の精神にダメージを与えたのはおまえじゃないか!」 「そうかもしれない。そうかもしれないが、おまえだって同罪だ」 「なぜ、俺から手児奈を奪おうとした?」あなたはわたしの腕を血が止まるほど強く握りました。 「手児奈は元々、俺の恋人だった」わたしはあなたの手を振りほどこうともがきました。「奪ったのはおまえだ」 「おまえは手児奈を捨てたんだ。なぜ、捨てた? おまえが手児奈を捨てなければ、俺とつき合うこともなく、生きてられたんだ」 「許してくれ!」わたしは哀願しました。「もう、許してくれ」 「いや、許さない。おまえは俺に借りを作った。とてつもなく大きな借りだ」あなたは微笑みました。「一生かけて、償え」  わたしはあなたの狂気が怖かった。自分の狂気のように。 「わかった。どうすれば、償える?」  あなたはやっと、わたしの手を放しました。そして腕ぐみをすると、その場に座りこみました。目はわたしではなく、何もない空間をじっと睨んでいました。そのまま一時間以上も、あなたはその姿勢を崩しませんでした。わたしは、てっきりあなたが、再び心を閉じてしまったのだと思いました。 「俺と一緒に医学部への編入試験を受けろ」  あまりのことにわたしは返事ができませんでした。 「医学部に行くんだ」あなたはわたしの返事がないことに痺《しび》れを切らして、繰り返し言いました。「俺には確実に合格できる自信がない。でも、二人なら、どちらかが合格できる可能性は一人よりも多い。次の試験はもう時間的に無理だが、次の次か、その次ならなんとかなるかもしれない」  医学部に行くことが、手児奈とどういう関係があるのかはわかりませんでした。わたしはなんとなく、あなたの頭の中の妄想と関係があるんだと思いました。しかし、わたしはあなたの命令通り試験勉強を始めました。わたしは手児奈を失った以上、自分の人生に対する意義は何も見いだせなかったのです。今何をするか、これからどうなるか、自分では何も決められなくなっていました。自分で決められないのだから、あなたに決めてもらってもいいわけです。  受験勉強は非常に難しく、辛いものでした。その辛さが償いの一部になるような気がして、体を壊すほどに勉強しました。  そして、わたしだけの合格が決まった時、下宿に訪ねてきて、あなたはわたしに言いました。 「計画を少し変更する。俺はこの学部に残って研究を続ける。おまえはおまえで、医学部で手児奈を助ける研究をやってくれ」  わたしは涙がこぼれそうになるのをなんとか耐えました。 「血沼、もう遅いんだ。今からではどんな医学でも手児奈を助けることはできないんだ」  突然、あなたは拳《こぶし》でわたしを殴り飛ばしました。わたしは畳の上にひっくり返って、すっかり諦《あきら》めきって、あなたを見つめていました。 「今からではもう遅いだって! よくもそんなことが言えたもんだな!」あなたは怒りのあまり、鼻血を出していました。「おまえの責任なのに、遅いとはどういう言い種だ。今からでも何か手を打とうとは思わないのか?」 「手児奈の魂の安らぎは医学の領域ではない」 「俺は手児奈を助けろと言っているんだ。供養しろと言っているわけじゃない」  あなたはポケットの中から、何か焦げ茶色の、掌に載るほどの塊が入ったビニール袋を取り出しました。ビニール袋の口は、半液状になった中身を漏らさないように、堅く縛られていました。 「手当てをしてくれ」 「それは何だ?」わたしは答えがわかっていました。「よく考えてから答えるんだ」 「手児奈だ。医学が十分に発達したら、治るはずだ」  わたしは首を振りました。 「血沼、よく聞くんだ。手児奈は死んだ」 「確かにそうかもしれないが、おまえが医学部で研究をすればいつか助ける方法が見つかる」 「死んだものは帰らない。それに手児奈の大部分は灰になってしまった」 「手児奈はここにいる。手児奈の殆どは灰になったかもしれないが、ここにはまだ手児奈がいる」 「それは手児奈じゃない」 「いいや、手児奈だ」あなたは言いました。「俺ははっきり覚えている。なんとかこれだけ救い出したんだ」  わたしはあなたを説得するのを諦めました。あなたにはその腐敗した肉塊が手児奈でないと理解することは不可能だったようです。そして、不思議なことにわたしもその肉塊が手児奈であるような気がしてきました。  そう。ここに手児奈の遺伝子がある。指紋も声紋も網膜パターンもなくなってしまったが、遺伝子がある。遺伝子を調べれば、間違いなく手児奈だと証明できる。そして、遺伝子があるなら、手児奈を復元できるはずだ。手児奈の遺伝子を抽出して、クローニングするんだ。人間のクローンは一度も報告されたことはない。しかし、それは原理的に不可能なのではなく、単に倫理面での問題が解決されていないからなのではないだろうか? もし、そうならば、希望はある。 「わかった。手児奈は俺が預かる。できる限りの手は打ってみる」  あなたはわたしの手を握り締めました。あなたの鼻からぼたぼたと握り合った手に血が落ちましたが、わたしは拭《ぬぐ》いもしませんでした。 「頼んだぞ。俺も頑張るからな」 「おまえも?」 「そうだ。俺は俺で考えがある。おまえが失敗しても俺がなんとしてでも手児奈を助ける」  そう言って、あなたはわたしの下宿を出ていきました。  医学部で研究を続けるうちにわたしは徐々に正常な感覚を取り戻していきました。そして、手児奈のクローンを作ることは実は何の意味もないことだと気づきました。  万が一、クローニングに成功しても、それは手児奈ではない。ただ、同じ遺伝子を持っているというだけだ。人間の同一性は遺伝情報だけで決まるものではない。一卵性の双子は全く同じ遺伝子を持っているが、それぞれ別個の人格だ。手児奈とそっくりの赤ん坊を作ってどうするつもりだ? いったん生まれれば、たとえ、手児奈の細胞から生まれたとしてもその子にはその子の人生が始まる。俺たちが自由にしていい権利はないはずだ。  わたしは手児奈の破片を破棄しました。  三十年がたちました。わたしは医学部の教授になっていました。あの時以来、ずっと、あなたには会っていませんでした。風の噂《うわさ》によると、あなたは博士課程に進んだのですが、結局、博士号はとれなかったようでした。担当教授の指導を全く無視し、自分で勝手に研究テーマを決めて実験を進め、揚げ句の果てに大学を飛び出して、音信不通になったそうです。  そのあなたがひょっこりわたしを大学に訪ねてきたのです。 「久しぶりだな、小竹田」あなたはすっかり老け込んで、実際の年より十歳は上に見えました。「手児奈は治りそうか?」  わたしはぎくりとしました。どうやら、あなたは三十年間も妄想の中で暮らしていたようでした。  あなたは、元の色がなんだったかもわからないぐらいに汚れたスーツのポケットから、焦げ茶色になった手児奈の写真を取り出して眺めると、顔の皺《しわ》をますます深くしてにやりと笑いました。 「いや、その……」わたしは口ごもりました。 「ああ、まだなのか? まあいいさ。せめているわけじゃない。容易でないことはわかってる。じっくり、腰を落ち着けてやればいい」あなたは教授室のソファに腰を下ろしました。「おまえ、教授になったらしいな」 「ああ、運がよかったんだ」 「おれは最悪だ。今日の飯にさえ不自由している。泊まる所すらない。おまえ、結婚してるのか?」 「ああ、二十年前にな。子供も二人いる」  あなたは突然、わたしの胸倉を掴《つか》みました。 「やっぱりな。おまえはそういう奴《やつ》だ。手児奈よりも自分の幸せを優先するんだな。……まあいい」あなたは手を離しました。「こうなったからには、おまえは治療法の開発に専念すればいい。手児奈が助かったら、俺のものにしてもいいってことだな」 「ああ、おまえの好きにしていい」 「どうした? 随分、元気がないなあ。研究がなかなか進まないのか?」  わたしはあなたに治療法の研究はとりやめたと言いかけました。 「それほど、深刻にならなくてもいいぜ。俺だって、何の手も打たなかったわけじゃない」あなたはにこやかに言いました。  わたしは余程不思議そうな顔をしていたのでしょう。あなたは吹き出しました。 「もちろん、医学的なことじゃない。だいたい、俺は最初からおまえにあまり期待していなかった。ああ、怒らないでくれよ」あなたは説明を始めました。「医学的に手児奈を助けるにはいくつか問題があった。まず、この肉片から遺伝子を取り出し、それで手児奈のクローンを作らなければならない。しかし、死後間もない細胞ではなく、完全に死に絶えた細胞の遺伝子から生きた核が生み出せるのかどうか。さらに、クローニングが成功したとして、どうやって、手児奈の意識をクローンに宿らせるか。つまり人間の記憶はどこにあるのかということだ。もし、それが魂にあるというのなら、手児奈の魂を捕まえなければならない。細胞一つ一つにあたかも遺伝情報のように蓄積されているというのなら、それを読み出さねばならない。脳の中のシナプスの結合状態の中にあるとしたら、……まあ、その場合は絶望的と言わざるを得ないのかもしれない。俺の理論が正しければ、それでも望みはある。小竹田、頼まれてくれないか?」 「何を?」わたしは唾《つば》を飲み込んだ。 「大学病院には精神科もあるな」 「ああ」 「患者のデータが欲しい」 「とんでもない!」わたしは声を荒らげました。「患者のプライバシーは侵害できない」 「何も患者の名前や顔の情報が欲しいんじゃない。症状と、脳内部の状態が知りたいだけだ」 「俺の専門は精神科でも、脳外科でもない」 「知り合いの一人や二人はいるだろう。患者全員の分でなくてもいいんだ。俺が欲しいのは時間感覚障害のデータだけだ」 「時間感覚?」 「そうだ。俺たちは正常な時間感覚を持っているので、昨日の次は今日、そしてその次は明日だと思っている。しかし、中にはいるはずだ。今日は一昨日から直接|繋《つな》がっているとか、今日の次は明後日になりそうで仕方がないとか、昨日のことは予測できないが、明日のことはよく覚えているとかそういう患者がいるはずだ」 「ああ、分裂病の中にはそんな症状もあったような気がする。だが、それは単なる記憶障害や妄想だぞ」 「なぜ、そうだとわかる?」 「現実に時間を逆行したり、一日、とばして未来に行ったりすれば、回りの人間が気づかないはずはない。それに記憶の中の明日と同じことは現実の明日では起こらない。記憶ではなく、妄想なのだから当然と言えば当然だが」 「本当か? 本当に彼等の記憶は予知していないんだな」 「ああ。そりゃ、たまに当たることもあるが、もちろん、偶然の範囲を越えない」 「ひゃっほう!」あなたは歓喜の声を上げました。「そうこなくちゃ困る。常に彼等の未来の記憶が現実と一致していたら、それはもう絶望的だ。これで希望が持てる。……小竹田、データはいつ手に入る?」 「わからない。精神科の知り合いに当たってみるが、手に入るかどうか」 「手に入れてもらわなければ困る。一週間ほどしたら、また来る。よい返事を期待してるぞ」 「おい、待てよ。おまえ、泊まるところがないなら、俺の……」 「駅の待合室ででも寝るさ」  あなたはきた時のようにまたぶらりと出て行きました。  本当はあなたの頼みなど無視すればよかったのかもしれません。しかし、わたしは懸命になって、精神科や脳外科の知り合いに懇願して回りました。いったい、わたしはなぜそんなまねをしたのでしょう? 自分でもよくわかりません。きっと、手児奈の死の原因はやはり自分にあったかもしれない、そして、手児奈の死によって、あなたが一生を失ってしまったのなら、それを償えないまでも、あなたの妄想の世界を構築する手伝いを、偽りの安心感であろうともあなたに与えよう。そう思ったのかもしれません。  手に入れたデータは一枚のディスクに収まりました。X線による脳内の構造データや脳波パターンのデータでした。 「頼まれついでに、もう一つ頼まれてくれ」あなたはディスクを受けとると、言いました。「このデータを解析したい。おまえの研究室のコンピュータを使わせてくれ。それから、部屋の隅っこでいいから、寝泊まりさせてくれないか? 寝袋は自分で用意する」 「別に構わないが、泊まるのは俺の家でいいだろう」 「別に遠慮しているわけじゃない。おまえの家からここに通う時間が勿体《もつたい》ないんだ」  あなたはその日から、ずっと研究室に泊まり込んでデータの解析を続けていました。学生たちは好奇の目であなたを見ましたが、わたしは敢えて本当のことを言わず、適当にごまかしておきました。そして、ひと月が過ぎた頃、あなたは教授室に飛び込んで来ました。 「やったぞ、小竹田! ついにわかったぞ! 手児奈は助かるんだ!」  いったい、いつ終わるのだろうか? そうわたしは思いました。 「落ち着けよ。何がわかったと言うんだ?」 「あとで、ゆっくり説明してやるよ。それより、頼みがある」 「おい、またかよ」 「粒子線|癌《がん》治療装置を使わせて欲しい」 「待ってくれ。いくら俺が教授だと言ってもできることとできないことがある」 「できるはずだ。使わせてくれたら、手児奈は助かる」 「もし、助からなかったら?」 「絶対、助かる」 「万が一、いや、億が一でも助からなかったら?」 「その時はすっぱり諦《あきら》める。でも、これは絶対、確実なんだよ」  あなたは何度断っても食い下がりました。わたしはなんとかしてあなたを妄想の世界から連れ出そうとしていたのです。でも、何時間も懸命に懇願するあなたを見ているうちに、単なる説得ではあなたの精神を救うことはできないことがわかってきました。例え茶番であっても、あなたの願望を叶《かな》えてやり、自分の目で結果を確認させれば、手児奈の呪縛《じゆばく》から解放されるかもしれない。それであなたの魂が救済されるなら、わたしの地位を懸《か》ける価値があるのではないか。いや、これで職を失ったとしても構わない。手児奈の死は本当に自分のせいだったのではないかという、この三十年間、一日たりとも消えたことのない鉛のような罪悪感が少しでも軽くなるのなら、何を失っても悔いることはない。そう感じ始めていたのです。  わたしは病院に嘘《うそ》をついてなんとか粒子線癌治療装置の使用許可をとりました。もしばれたら、わたしの地位すら危うくするような賭でした。あなたは深夜に使用することを主張しました。邪魔が入らないようにと考えてのことだということでした。 「さあ、使わせてやるよ。その前に」わたしは治療装置制御室で言いました。「今度は俺《おれ》が頼みたい」 「何だ? 言ってみろ」 「教えてくれ。いったい、おまえは何を企《たくら》んでいるんだ、この粒子線癌治療装置で?」  粒子線癌治療装置——それは手術が不可能あるいは極めて困難な場所の癌の治療に使うものです。この装置は体内の特定の場所に粒子線を集中して送り込み、周囲の組織には影響を与えず、その場所にある細胞だけを死滅させることができるのです。もちろん、通常、死滅させるのは癌細胞でしたが。 「だから、時間の逆行だよ」  やはりそうだったのです。時間感覚の話をしてから、わたしはその可能性に気づいていました。 「何だ、その蔑《さげす》むような目は?」あなたは鼻息を荒くしました。「ははあん。ついに俺が狂ったと思ってるのか? まあ、無理もないな。いきなり、こんなことを言うんだものなあ」そして、げらげら笑い出しました。「考えてみれば、今だけじゃない。三十年前からずっと俺の行動は正気の沙汰《さた》じゃなかったな。しかし、俺の行動にはちゃんと必然的な理由があったんだ。あっ! そうか。おまえ、俺が手児奈を失った悲しみで狂ってしまったと思ってたんだな。すまん、そう思われても仕方ないなあ。よし、最初から順を追って説明しよう。  俺は手児奈が事故にあってから、ずっとなんとか手児奈を助ける方法はないかと考え続けていたんだ。そして、二つの方法に辿《たど》り着いた。一つはおまえに頼んだこと——死んだ細胞からのクローニング、もう一つは時間の逆行だ。どっちも、現実離れしていることは俺にもわかっていたよ。でも、それしか方法はなかったんだ。最初はクローニングの方がより望みがありそうな気がした。だから、医学部に入ろうとした。合格したのはおまえだけだったが。  何度でも挑戦しようとも思ったが、二人で一つの方法を研究するよりも、一人ずつ別の研究をした方が確実だと考えて、俺は時間の研究を始めることにしたんだ。もし、二人で五十年間もクローニングを研究した後で、不可能だとわかっても、時間の研究をする時間は残ってないものな。まあ、結果的には先に時間の逆行が実現しそうだから、このやり方はよかったってことだ。勝手な研究を続けたんで、研究室にはいられなくなったがな。  俺は物理学のいろいろな分野での時間の取扱いを調べたんだ。つまり、時間の逆行を禁止するような物理法則を研究すれば、その適用範囲外の現象を起こすことによって、時間が逆行できると考えたからだ。  相対性理論、量子力学、電磁気学、熱力学、カオス理論——調べるうちに俺は行き詰まってしまった。時間逆行の理論の例外が見つからなかったからじゃない。その逆だ。時間逆行を禁止する理由が見つからなかったんだ。  どの物理理論も物理法則を表す一組の方程式群を基本にしている。当然、静的な現象でない限り、その方程式には空間上の位置を示す三つの変数と共に時間を示す変数が含まれている。普通、空間がxyzで表現されるのに対し、時間はtという文字で表現されている。しかし、妙なことだが、どの方程式もtがプラスでなくマイナスでも成り立ってしまうんだ。つまり、時間的に逆行するような物理現象は起きても全然不思議でないということだ。でも、俺たちの身の回りではそのような時間の逆行は起きていない。どうしてだろうか?」 「それは簡単なことだ」わたしは何十年前かに錆《さ》び付いてしまった物理の知識に油をさしながら答えた。「物理法則は必ずしも数式で表現されるものではないんだ。例えば、因果律だ。『原因は必ず結果に先んずる』という法則がある」 「果たして因果律は物理法則と言えるのだろうか? 原因とか結果とか言うのは非常に曖昧《あいまい》な概念だ。これが原因、あれが結果と判断できるのは人間の知性だけだ。機械で測定することはできない。それに、俺には『原因は結果に先んずる』というのは『時間は逆行しない』という言葉を言い換えただけだとしか思えない。ただ、日常の体験を言葉で言い表しただけだ。俺としては因果律を物理法則と考える根拠は薄弱だと思う」 「熱力学の第二法則はどうだ? あれは時間の方向性を含んだ法則だ」 「『エントロピーは時間と共に増大する』というやつだな。わかりやすく言えば、物事はほっておくとどんどん乱雑になっていくということだ。厳密に言うと、エントロピーは乱雑さとは同じではないがな。建物は壊れ、皿は割れ、杭《くい》は腐り、釘《くぎ》は錆び付く。しかし、生物はどうだ? 乱雑になるどころか、進化して高等になっていくぞ。それに人類の文明は?」 「その程度のことは宇宙レベルで見れば、小さなことだ。太陽はこうしている間にもエネルギーを使い果たしていく。確かに部分的には乱雑さは減少しているように見えるが、地球を含めた太陽系全体は確実に崩壊に向かっているんだ」 「これはまた、悲観的なお言葉だね。俺には熱力学の第二法則はまだ曖昧に聞こえる。いったい、何を意味するのか? 『エントロピーは時間と共に増大する』この法則にはすでに『時間』という言葉が使われている。つまり、熱力学の第二法則は時間の向きがすでに決定されていると仮定したうえでの法則だと言うことになる。では、質問をしよう。時間の向きはなぜ、決まっているんだ?」 「俺にはよくわからない」わたしは持てる科学知識を総動員しました。「しかし、宇宙は膨脹しているというじゃないか。未来にいくほど、宇宙は大きくなる。解答はこの近くにあると思う」 「俺にはそう思えない。その説明では、エントロピーの増大と五十歩百歩だ。つまり、こういうことだ。宇宙の大きさや、エントロピーの大きさを測定すれば、時間の流れの方向は決められるかもしれない。では、それを測定しないと、時間の流れはわからないのか? 小竹田、どうだ? おまえ、目をつぶっていたら、時間の流れは捕らえられなくなるとでも言うのか?」 「いや、そんなことはない。目をつぶっていても、時間の流れはわかる。意識は時間と共に流れていくから」 「そう! その通りだ!」あなたは踊り出しました。「時間の流れとは意識の流れのことなんだ! 人間の意識が時間の流れを作り出しているんだ!」 「そうじゃない。そう見えるけれど、そうじゃない」 「じゃあ、どうして意識に時間の流れがある?」 「それはつまり、記憶のメカニズムが関係するんだろう。過去のことは記憶できるが、未来は記憶できない。これは不思議でもなんでもない。記憶とは記録のことだ。記録する能力を持つものは意識だけじゃない。オーディオ・テープ、ビデオ・テープ、それに紙だって、いろいろなことを記録できる。過去のことを記録できて、未来のことは記録できないのは意識だって同じだ。おまえは、まさか、紙と鉛筆が時間の向きを決めていると言うわけじゃないだろう?」 「『シュレディンガーの猫』って、知ってるか?」あなたは唐突にわたしに尋ねました。  わたしは難解な議論のために頭がぼおっとなっていましたが、その言葉だけは思い出せました。 「量子力学に出てくる逆説のことだろう。確か、コペンハーゲン解釈に関することだったはずだ。  閉じた箱の中に一匹の猫と、一個の放射性原子が入っている。この原子の半減期は一時間だ。これが何を意味するかというと『この原子が一時間以内に放射線を放出する可能性はちょうど五十パーセントである』ということだ。箱の中にはセンサーがあって、放射線を感知すると、毒ガスを発生させて猫を殺してしまう。さて、一時間後に、蓋《ふた》を開ける時、生きている猫を発見する可能性は五十パーセント、死んでいる猫を発見する可能性も五十パーセントだ。蓋を開ける前に、すでに箱の中には生きている猫がいるか、死んだ猫がいるか、どちらかに決まっている。ところが、そう考えない物理学者がいる。箱の中には非実在の生きている猫と非実在の死んでいる猫がいる。そして、誰かが蓋を開けた瞬間にどちらかの猫だけが実在化し、もう一方の猫は消滅してしまう」 「そう。世界のとらえ方の解釈の仕方だ。箱の中に閉じ込めた猫は死んでいるのでも、生きているのでもない。それはまだ決定されていない。誰かが箱を開けて、猫を観察した瞬間にどちらかに決まる」 「気味が悪い考え方だ。だが、そんな状態が存在するかどうか確かめるのは簡単だ。箱を揺すってみればいい。猫が生きていたら、鳴くだろう」 「箱を揺することは一種の観察だ。その瞬間に生きている猫か、死んでいる猫か、どちらかが実在化してしまう」 「レントゲンか超音波で中を調べればどうだ?」 「それでも同じだ。その瞬間に猫の生死が決定される」 「じゃあ、例えば、赤ん坊の性別は生まれる瞬間に決まるのか? それまでは男の赤ん坊の非実在と女の赤ん坊の非実在があるだけってことか?」 「そう。ただ、超音波を使って胎児の診断をするようになってからは、もっと早く決定するようになったけどな。同じようにビデオ・テープの中身は再生するまでは決まっていないんだ。それは実は何も記録していない。意識が観察した瞬間に記録されると言ってもいい。手紙だっていっしょだ。開封するまで、中に何が書いてあるかは決まっていないんだ」 「差出人に電話して確かめることはできる」 「その瞬間に決定するだろうな。もちろん、自分の手紙の内容を間違って覚えていることもあるだろうから、確実ではないが。すべての記録は実は記録じゃないんだ。意識の観察がなければ、記録は実在化できない。つまり、われわれが記録だと思っているものは意識の延長にすぎない。  古代の墳墓を発掘することによって、歴史は確定する。人類が探査するまでは、月や火星には非実在の荒涼とした死の世界と共に、非実在の生命に満たされた世界があったんだ。しかし、今では死の世界のみが実在化してしまった。ありのままに存在する現象をありのままに観察するのではない。観察することによってそこに現象が実在化するんだ」 「確かに面白い考え方だが、それは科学じゃない。どちらかと言えば、哲学だ。そんなこととても実証できない」 「ところが、量子力学は面白いことを教えてくれる。すべての物質は陽子とか、中性子とか、電子などの素粒子で出来ている。量子力学ではこれらの素粒子の運動を計算するときは粒子としてではなく、波動《なみ》として計算するんだ。この方法により、素粒子の性質が次々と予言され、そして、実証されてきた。従って、この方法の正しさは確実だと思われる。ただ、おかしなことに理論通りに振る舞う素粒子そのものを観察すると、波動《なみ》の姿ではなく、粒子なんだ。物理学者たちのあるグループはこう解釈した。『素粒子は普段、誰も見ていない時は波動《なみ》の姿をしていて、誰かに見られた瞬間に粒子の姿をとるのだ』この考えを素粒子だけではなく、素粒子から形作られているすべての存在に拡大するのはそれほど困難じゃない。箱の中の猫は生と死の間で行きつ戻りつしている波動《なみ》の状態だと考えられる。誰かが見た瞬間にどちらかの方に引き寄せられるということさ」 「そんなことが物理だなんて信じられない」 「でも、そうなんだ。『波動関数の収束』と呼ばれる量子過程なんだ。そして、この過程は逆転しない。観察するのを止めても元には戻らない。——箱の蓋を閉めても、猫は死んだままになる。時間の向きに関係の無かったはずの量子力学が意識の介入によって、逆転できなくなる。どういうことかわかるかな? 時間の流れは意識の流れだ。意識の流れをコントロールすれば、時間の流れもコントロールできる」 「妄想だ」 「時間の向きが決まっていると考える方が妄想だ」あなたはにやりと笑いました。「まあ、いい。……ところで、なぜおまえと、俺は頭を上に足を下に向けている?」 「……重力があるからだ」 「そう。重力があるから、それを俺たちの脳は感じ取って、体を垂直にする。もちろん、しようと思えば、逆立ちもできる。  宇宙の膨脹か、エントロピーの増大か、中間子の崩壊か、どれかは知らんが、俺たちの脳は何かを感じ取って、意識の流れ、つまり時間の流れの向きをそれに合わせる。でも、俺は逆立ちがしたいんだ」 「おまえの考えは理解した。まだ、納得はしてないがな。それと、粒子線|癌《がん》治療装置とどう関係がある?」 「俺やおまえが上下を知っているのは重力を脳が感知しているからだ。その器官は耳の奥にある三半規管だ。それが壊れれば、上下の感覚がなくなって、体を垂直に保つことができなくなる。俺やおまえが時間の流れの向きを知っているのはなんらかの器官で、何かの現象を感知しているからだ。それが何を感知しているのかはわからないが、もし、それが壊れれば、時間の流れの向きの統一性が損なわれるはずだ」 「じゃあ、おまえが患者のデータを欲しがったのは……」 「時間感覚が異常になったやつの中にはその器官が壊れたことが原因になっているやつがいるはずだ。何人かが共通して同じ器官に障害があるなら、俺の求めている器官はそれだ。そして、あのデータから俺は見つけた。それは脳の奥にあるちいさな領域だ。数マイクロリットル程度の体積しかない。その部分だけを限定的に破壊するには、粒子線癌治療装置が必要だ」 「本気なのか?」 「ああ、俺の脳の奥に埋まっているその領域を破壊してくれ、それだけでいい。俺は時間の流れから解放される」 「そんなことをして、大丈夫だとは保証できないぞ。なにしろ、脳のことだからな」 「それ以外の領域に傷をつけなければ大丈夫だ」 「しかし、おまえが調べた患者たちには全員に何か異常な点があったと思うが」 「時間流感知領域がなんらかの原因で壊れている患者は、近接した別の領域も破壊されている。だから、かれらには精神障害が現出した。破壊を時間流感知領域だけに限定すれば、問題はない」あなたは苛立《いらだ》たしそうに言いました。「こんなことで言い争いをしている時間が惜しい。この装置の使い方を教えてくれ」  わたしは催眠術にかかったように、あなたに装置の説明を始めました。こんな恐ろしい計画は実行させるべきでないのはわかっていました。でも、その一方で、言いなりになっている振りをしておこう。適当な時期になったら、協力するのを止めて、中止するように説得しようという考えが、ある意味での安心感を生み出していました。しかし、結局、最後まで、あなたを止めることはできなかったのですから、その安心感は幻想だったのでしょう。 「この装置の使い方は簡単だ。最初に患者の頭部をベルトで固定する。それが終わったら、ドアを閉め、ここのコンソールでX線走査を選択し、実行する」  わたしはモニターに表示されたメニューから、X線走査を選び、クリックしました。画面にエラー表示が表われました。 「中に誰もいない時にこのコマンドを行うとエラーが出る。今は説明のために、デモンストレーション・モードに切り替えてみよう」  モニターに誰かの脳の内部の様子が表示されました。それは立体処理されており、望めば両眼視差による立体表示も可能でした。また、切断処理も透視処理も瞬時に行うことができました。 「凄《すご》いもんだな」あなたはため息をつきました。「俺が学生のころにこんなシステムがあったら、もっと研究も捗《はかど》ったのに。表示の操作方法はだいたいわかった。ちょっと、触らせてくれ」  あなたはすでに要領を飲み込んだらしく、器用に移動と拡大を繰り返し、例の領域を画面に大きく写し出しました。 「治療部位を入力する方法は?」あなたは尋ねました。 「通常はAIが自動的に腫瘍《しゆよう》である可能性が高い部位を候補としてあげてくれる。われわれはその中から選択するだけでいい。このデモでは三か所の腫瘍が設定されている」 「マニュアル入力もできるはずだ」 「待ってくれ」わたしはヘルプ・アイコンをクリックしました。「マニュアル入力は二通りの方法がある。数値入力とマウス入力だ。マウスの方が簡単だろう。治療領域の表面の何点かをクリックすれば、それらを滑らかに曲面で繋《つな》いでくれる。もし、その曲面に満足がいかなかったら、さらに、サンプル点を増やしていけばいい」  あなたは3Dマウスを使って、治療部分を入力しました。画面上ではその部分が緑色に点滅し、治療実行アイコンをクリックすると、確認メッセージが表われました。あなたが、イエスを選択すると、システムはID番号を要求しました。 「何だ、これは?」 「当然だろ。資格のないものが勝手に装置を使用しないための安全措置だ」 「おまえには資格があるのか?」 「ああ、一応、与えられている」 「おまえのIDを教えてくれ」  あなたはわたしの言う通りの数字を入力しました。そして、最後の確認メッセージ。イエス。治療部分が一瞬、赤く光り、『この部分の治療は終わりました。他の部分の治療を続けますか?』という文字が表われました。  あなたは表示を見ながら、考え込んでいました。 「どうした?」わたしは不審に思って尋ねました。 「小竹田、今の操作手順をプログラムして、自動で実行できるか?」 「無理だ。この制御装置は汎用《はんよう》コンピュータじゃない。無人では動かない」 「じゃあ、治療装置の中に端末はあるのか?」 「あるはずないだろう。患者が自分で治療しなければならない事態なんか想定しているはずがない」 「今がその事態だ」あなたは目をつぶったまま、言いました。「おまえ、やってくれるか?」 「断る」 「なぜ?」 「もし、おまえが間違っていたら、どうなる? この領域が生命にとって、必要不可欠な器官だったら? 必要不可欠とまではいかなくても、脳の内部を傷つければ、簡単に廃人になってしまうことぐらい、医者である俺《おれ》が知らないわけないだろう。そんなことをしたら、俺はもうお終いだ。自分自身のミスなら、まだ諦《あきら》めもつく。でも、おまえのミスが俺の責任になるのは納得できない」  あなたは突然、大声で笑い出しました。 「やっぱり、そうか。おまえは自分の人生に未練があるんだな。手児奈なしの人生でも満足できるってわけだな」あなたはぴたりと笑いを止めました。「だが、俺は違う。心配するな。俺は最初からおまえなんかに頼る気はないよ」  あなたに指摘され、わたしは言ったばかりの自分の言動に気づきました。なぜ、あのようなことを言ったのだろう? せっかくの贖罪《しよくざい》の機会だと言うのに。俺は利己的な人間なのだろうか? やはり、手児奈は俺の犠牲になったのだろうか?  あなたは今にも崩れて、雑巾《ぞうきん》になってしまいそうなスーツのポケットから、携帯コンピュータを手児奈の写真と共に取り出しました。 「こいつが俺の代わりに操作してくれる。つまり、制御装置を制御するわけだ」  あなたは慣れた手つきで、携帯コンピュータと制御装置のマウスやキーボード入力端子、それに、モニター出力端子をケーブル接続しました。そして、なにやらプログラムの入力を始めました。一時間ほどかけてプログラムした後、粒子線癌治療装置のドアを開け、わたしに言いました。 「俺が中に入って、頭を固定したら、自動的にドアがしまり、後は全部、コンピュータがやってくれる。俺に何かあったら、弁解はかなり難しいだろうが、このコンピュータを見せれば、刑事罰だけは逃れられるかもな」 「待てよ。麻酔を打たなければ」 「必要ない。脳の内部には痛覚はない」  あなたが装置に入って数秒後、コンピュータが作動し始めました。モニター上では目まぐるしく幾何学図形が踊り狂っていました。巨大な圧力タンクを想像させる装置は音をほとんど通さないはずでしたが、何かが装置の中から聞こえます。わたしはそれがあなたの声でないと信じようとしました。事実、あれが人間の声だったはずはありません。それは聞くだけで、血が逆流し、息ができなくなり、爪《つめ》で自分の顔の皮膚を引きはがしたくなるような音でした。手で耳をどんなに強く押さえても、鼓膜にあたるまで指を耳に押し込んでも、その音は頭の中に入り込んできます。  わたしはその音をかき消すために絶叫を続けました。  わたしの声がかれ果てた三十分後、再びドアが開き、あなたは、ふらふらと、中から這《は》い出してきました。 「大丈夫か?」わたしも音の拷問で神経がぼろぼろでしたが、あなたに駆け寄り、肩を貸しました。 「ああ、大丈夫だ。どこも痛くないし、痺《しび》れてもいないし、苦しくもない。しかし、ショックが……大き過ぎる」  あなたの体重をわたしの力では支えきれず、床に座り込んでしまいました。 「おかしい!?」あなたは自分の手を見つめ、何度も閉じたり開いたりしました。「小竹田、時計を持っているか?」  あなたはわたしの腕時計をひったくると、秒針の動きをじっと眺めました。 「変化がない!」  あなたはよろよろと、コンピュータの画面に向かい、現在の時刻を表示しました。そして、しばらく、ゆっくりと進み続ける数字を見た後、両手で顔を覆い、椅子《いす》に座り込みました。 「何かを間違えたんだ。こんなはずはない」あなたはいらいらと、髪をかきむしりました。「一回の失敗だけで諦めはしないぞ!」 「もう、諦めろ」わたしはあなたを慰めました。「脳内に手を加えて、平気でいられるだけで、奇跡的なことなんだ。おまえの脳はもう処置されてしまったんだ。これ以上、どうしようもない」  わたしは内心、ほっとしていました。死ぬか、よくても廃人になることは覚悟していたのです。それが思いのほか、あなたがぴんぴんしていたので、すこし楽観的になっていました。 「そうか!」あなたは立ち上がりました。「おまえ、また、自分の保身を考えていたな」  わたしはぎくりとしました。なんということだ。おれは本当に、自分のことしか考えられないのか!? 「まあいい。しかし、計画が失敗したことは紛れもない事実だ。俺の意識は時間の流れから解放されなかった。……いったい、何が原因だろう? ……そうだ!」あなたは汗でびっしょり濡《ぬ》れた掌でわたしの肩を掴《つか》みました。「小竹田、コンピュータのディスプレイを見てただろう。どうだった? ちゃんと、プログラム通り作動していたか?」 「わからない」わたしは怯《おび》えていました。「ディスプレイを見てなかったんだ。だって、音が……」  あなたはわたしを突き放し、モニターを見ながら呟《つぶや》きました。 「プログラムにバグがあったんだ。だから、俺の脳の処置は失敗したんだ。コンピュータなどに頼らず、人間が制御すべきだったんだ。でも、俺の脳ではもうだめだ。すでに、間違った処置を受けてしまった」あなたはわたしの顔をじっと見ました。「今こそ、おまえの罪滅ぼしの時だ」  ああ、あなたはなんと恐ろしいことを言ったのでしょう。わたしの脳まで処置しようと言うのです。なぜ、わたしがそんな目に遭わなくてはならないのでしょう。わたしは、断固として拒否しようとしました。ところが、わたしの口はまったく違う言葉を発したのです。 「わかった。操作はおまえに任せる」  なぜ、そんなことを言ったのか、今でもよくわかりません。あなたの催眠術にかかっていたからなのでしょうか? それとも、目の前で、あなたになんの別状もないことを確認して、楽観的になっていたためでしょうか? いえ、ひょっとしたら、わたしは心の奥で、処置されることを望んでいたのかもしれません。あなたに生死を預けることで、自らの利己主義性を否定し、手児奈への罪の贖《あがな》いに代えることができると信じることができたのでしょう。今となっては、もはや、思い出すこともできません。気がつくと、わたしは装置の中に横たわっていました。  頭を固定すると、あなたの声が頭上のスピーカーから聞こえてきました。 「いいか? いくぞ」 「やってくれ」  初めはただの涼しさを感じました。それが、だんだんと痺《しび》れに変わってきました。痺れは頭の芯《しん》から広がり、徐々に頭部全体、そして、胸、腹、手足へと脈動しながら、広がっていきます。痺れの波には山と谷があり、山の時にはすべての感覚が飽和しました。あらゆる種類の色の光が視野いっぱいに、いや、頭の後ろや、中にまで広がりました。赤、橙《だいだい》、黄、緑、青、藍《あい》、紫、その他、人間が知っている全ての色の一つ一つが、とても耐えられないような眩《まぶ》しさで、それぞれ視界を埋め尽くしていました。それでいて、色は混ざってしまうのではなく、ちゃんと識別できるのです。あらゆる高さの音が全身で聞き取れました。それは、余りの喧《やかま》しさに皮膚が全て振動で破れてしまうのではないかと思うほどでした。同じようにあらゆる種類の臭い、あらゆる種類の味、あらゆる種類の皮膚感覚、あらゆる種類の内臓感覚、あらゆる種類の感情などが波となって押し寄せてきます。わたしはそれらに抵抗することもできず、木偶《でく》人形のようにただただ翻弄《ほんろう》されるだけでした。  いったい、どれほどの時間がたったのでしょう。初めは、嵐のような感覚の洪水である山と山との間の谷は、完全な暗黒と静寂だとしか感じられなかったのですが、そのうち、谷の時間にも何かを感じとっていることに気がつきました。明るい夏の日中に室内に入ると、何も見えなくなるように、ロックコンサートの後では、大声を出さなければ聞こえないように、強烈な刺激のために隠されていた弱い感覚があったのです。あるいはあれは幻覚だったのかもしれません。視覚や聴覚だけでなく、全ての感覚に広がる幻覚でした。そして、あたかも、実際の体験のようにわたしの五感を包み込みました。それはこんな幻覚でした。  わたしは夏の日に、蝉をとる小学生でした。そこは家の近くの山で小さな木は少なく巨木ばかりが生えていました。地面は急斜面が多く、黄土色をしていました。斜面の下側を見ると、わたしが育った町並みが遠く木々の間に見え隠れしています。日はまだ高かったのですが、林の中には涼しい風が流れていました。わたしは蝉をとっては肩から下げた虫籠《むしかご》に押し込めました。朝から始めたので、籠の中は蝉でいっぱいでした。それでも、わたしは蝉を取り続け、押し込め続けます。蝉は身動きできなくなって、時々、じいじいと苦しそうな声を出します。わたしは構わず、蝉を詰め込みます。殆《ほとん》どの蝉は動かなくなりました。蝉を押し込むときにかなり力が要りました。押し込む時に何か殻を潰《つぶ》すような嫌な音がしました。籠は蝉で膨れ上がってボールのようになっていました。蝉の体液でティーシャツが汚れました。その時、わたしは虫籠の中にいるのが蝉でないことに気づきました。それは頭のない雀でした。  わたしは校庭の隅から、少女に遠い、しかし、熱い視線を投げ掛ける中学生でした。その少女の胸で揺れるセーラー服のリボンの美しさに心が奪われました。他の少女の胸のリボンも同じ素材、同じ形、同じ色だということには気づいていなかったのです。少女は春の日の陽炎《かげろう》のように地面の上を跳ね回りました。わたしは少女と話したこともなかったのです。そう、友達でも、知り合いでもなかったのです。そして、自分から話しかけることなど、夢にも思いませんでした。少女はふと、こちらを見ました。一瞬、確実に目が合いました。殆ど校庭の反対側でしたが、目が合ったことははっきりとわかりました。わたしは最初少女の近くにある、少女とは別の何かを見ているふりをしようとしました。でも、そんなものはなかったのです。少女の周りにあるものと言えば、ボールと他の少女たちだけでした。わたしは耐えきれずに俯《うつむ》きました。少女はわたしを見つめ続けています。視線がわたしの全身を貫くのです。少女は速くもなく遅くもない速度でわたしのいる場所に歩いてきます。わたしは逃げ出したくなりました。しかし、逃げると、自分の罪を認めるような気がして、じっとしていました。遊ぶ少女を見ることは罪ではないことに思い至りませんでした。少女が近づいてくるにしたがって、少し希望も感じ始めました。少女もわたしのことを見ていたのかもしれないと思ったからです。少女はわたしの目の前まで来ると、にこりと笑い、「わたしのこと見てたの?」と言いました。わたしは顔を上げずに頷《うなず》きました。少女は「わたしのことが好きなの?」と言いました。わたしは微《かす》かに震えただけでした。少女は「キスしたい?」と言いました。わたしは拳《こぶし》を握り締めました。もう止めてくれ。少女は「セックスしたい?」と言いました。わたしは身動きできませんでした。「でも、駄目なのよ。そんなことはできないのよ。あなたの声はわたしには聞こえないのよ。そして、あなたの姿もわたしには見えない。だから、わたしはあなたの存在に気づかない。なぜって、あなたは」少女はわたしを指差しました。「死んで霊になっているんですもの」  わたしは無心に哺乳瓶《ほにゆうびん》を吸う乳児でした。母は台所で洗い物をしており、わたしは一人で寝台に寝かされていました。寝台の下から、一匹の鼠があらわれました。鼠は布団の上まで上がってきて、哺乳瓶の上に乗り、じっとわたしの目を覗《のぞ》き込みます。「かわいそうに」鼠は言いました。「俺はただの鼠だ。人間に見つかったら、ひとたまりもない。だから、こそこそ生きている。そして、おまえは人間の子供だ。自分では動くこともできない。今、俺はおまえの生死を握っている。おまえを殺せば、おまえの親は俺を恨むだろう。でも、殺さなくたって、俺に感謝してくれるわけじゃない。きっと、見つかれば、俺は殺されてしまうのだろう。だから、おまえを殺そうが、殺すまいが、俺には損も得もない。ただ、おまえを殺せるチャンスはあと二、三十秒で終わってしまう。なぜなら、おまえの母親が戻って来るからだ。ああ、かわいそうに」  わたしは受験勉強に身が入らず、深夜ラジオにうつつを抜かす高校生でした。ラジオのディスク・ジョッキーは意味のない話を延々と続けていました。面白くないなあ。こいつはありきたりなことをあたかも自分の考えであるかのように喋《しやべ》っているだけだ。何も新しくないし、何も優れていない。もっと、凄《すご》い番組はないんだろうか? ディスク・ジョッキーの声の調子が変わった。おや? 何か変わったことが始まるのかな? 「よし、リスナーのコーナーだよ。今日は皆の中から選んだ小竹田丈夫《しのだたけお》君にインタビューだ」え? どうしよう? 電話がかかってくるのかな? こんな夜遅くに電話なんかしてたら、怒られるかな? でも、ラジオ局からだって言ったら、許してくれるだろう。それに静かに話せば、目を覚まさないかもしれない。とにかくラジオを持って、電話の所に行こう。変だな、ラジオ局に葉書を送った覚えはないんだけど、どうして、選ばれたんだろう? 友達の誰かが悪ふざけで名前を使ったんだろうか? 「今日は小竹田君にこのスタジオに来てもらっているんだ。さあ、何を聞こう。とっても、楽しみだね。今まで、小竹田君について疑問に思っていたことは全部聞いてみよう」あれ? どういうことだろう? 僕はここにいるのになぜ、スタジオにいるなんて言うんだろう? 「では、小竹田君に話してもらおう。その前にラジオの前で疑問を感じている人に説明しておこう。特に、自分の部屋でラジオを聞いていて、突然これから自分のインタビューがラジオのスタジオで行われると言われて、驚いている小竹田君には是非説明しなければならないだろう。小竹田君、君は今自分の部屋にいるのにどうして、ラジオのスタジオにもいるのか? これは聞いてみれば簡単なことなんだよ。つまり、今、スタジオで僕の横に座っている小竹田君は本物の[#「本物の」に傍点]小竹田君なんだよ。だから、君が二人いることになってしまったんだ。でも、これで不思議でもなんでもなくなったよね。じゃあ、ここにいる本物の[#「本物の」に傍点]小竹田君、最初に何か一言お願いします」わたしは自分の声を聞く前になんとかラジオのスイッチを消さねばなりませんでした。  次のわたしは、初めて両親から離されて恐怖に泣き叫ぶ、保育園児でした。「いつまで泣いてるの?」保母がしゃがみ込んで話しかけてきました。「急に寂しくなっちゃったの?」わたしは首を振りながら泣き続けました。「困ったわね。ほら、丈夫ちゃん、金魚ちゃんよ」保母はまだ若く、子供の扱いにはそれほど慣れてはいないようでした。部屋の隅においてある金魚鉢のところに泣き続けるわたしを連れて行き、金魚がよく見えるように台の上にわたしを立たせました。「ね、かわいいでしょ」その時、別の子供たちが奇声をあげました。自分の吐いたものを食べ直そうとしている女児を認めた保母は、泣きじゃくるわたしを置いて、慌ててそっちの方へ飛んで行きました。始末を終えて戻ってきた保母は、金魚の数が減っていることには気づかずにわたしにこう言いました。「どうしたの、丈夫ちゃん。お口のところから血が出てるわ」  わたしは何も知らずに眠る胎児でした。しかし、突然、恐ろしくなりました。昔、詩に書かれた通りにです。だから、わたしは同じ詩に書かれたように踊り続けました。  そして、わたしは手児奈と楽しく語らいながら歩く青年でした。ああ、手児奈! 暖かい春の風の中、手児奈はわたしの横で地面の上をまるで滑るように進んでいきます。わたしは「手児奈、君はなんと愛らしいんだ」と言いました。手児奈は周りに咲き乱れる桜の花よりも可憐《かれん》に笑い、「でも、あなたはわたしに死んで欲しいのじゃないかしら?」と答えました。「どうしてそんなことを言うんだ! そんなわけないじゃないか」「本当に? じゃあどうして諦《あきら》めたの?」「何を言っているんだ? 何を諦めたというんだ?」「わたしの命」「違うんだ。そうじゃないんだ。まだあの事故は起きていないはずじゃないか。それなのに、君だけがあの事故を先取りして、僕を責めるのはフェアじゃない。確かにもうすぐ事故が起きて、僕は諦めてしまう。だから、潜在的には今でも君に引け目がある。だからと言って、物事が起きる前に責任をとらせられてはたまらない。もし、未来に確実に殺人を犯す人間がいたとして、そのことを先取りして、死刑にすることはできない。そんなことをしたら、殺人は起きないことになって、殺人犯でない者が死刑にされたことになるんだ。お願いだ、起きてもいないことで僕を責めるのは止めておくれ」「何のことを言っているの? 事故って何?」わたしは悟りました。「君はいったい誰なんだ?」女は答えました。「わたしは数奇な運命の下に生まれた者。わたしは二人の男の人生を狂わせた。波動関数は収束した。わたしは音を見る者。わたしは光を味わう者。わたしは匂《にお》いを触る者。わたしは味を聞く者。わたしは形を嗅《か》ぐ者。わたしは古代詩の女主人公《ヒロイン》になる。波動関数は発散した」瞳《ひとみ》が緑に輝きました。「わたしは手児奈」  それらはすべて本当の記憶だったのか、それとも、消えかかった記憶から、わたしの脳がつじつまを合わせて作ったその場限りの幻だったのか、なんとも説明がつかない体験でした。あたかも、その場にいるかのような臨場感があるにも拘《かか》わらず、一瞬で消え去り、同じ情景が繰り返されることはありませんでした。次から次へと、作り出される世界の中で自由は与えられず、その時、その時の状況をわたしは、受け入れる以外の行動はとれなかったのです。そのようなつかの間の人生の断片の数は数万を越えていたように思います。わたしは何日間も治療装置の中で、物語が終わるのをひたすら待っていました。しかし、終わりはなかなかやってきませんでした。わたしは眠ることも、苦痛に身を捩《よじ》ることさえできませんでした。そして、最後には諦めてしまい、じっと、死を待つ決心をしました。決心をしてから、さらに幾十倍かの時間がたったころ、わたしは死ぬこともできないことを知りました。わたしは時間を心で計るのを止めました。  どのくらいの時間がたったのでしょう。わたしは暗闇《くらやみ》の中に横たわっている自分を発見しました。いつのまにか、波は終わっていました。しばらくの間、わたしは自分が生きているのか、死んでいるのか判断がつきませんでした。しかし、ドアが開いて、光が差し込んでくると、わたしは自分が生きていることに確信が持てるようになり、のろのろと、外に這《は》い出しました。わたしは自分が生きているということに気づいても何の喜びも感じませんでした。 「終わったか?」あなたは暗い顔で訊《き》きました。 「ああ、酷《ひど》い」 「俺も酷かったよ」 「でも、おまえはたったの三十分で済んだじゃないか」わたしは恨みがましく言いました。 「おまえだってそうだ」  わたしは時計を見る気力もありませんでした。 「どうして、失敗した?」わたしは掌で涙を隠しました。 「わからない。俺はちゃんとやったはずだ」 「しかし、現に時間はいつも通り、未来へと一直線に進んでいる。人生最大のショックを受けた以外にはなんの異常も見られない」  あなたは目をつぶって、しばらく無言で考え込んだ後、 「考えられる原因が一つある」 「何だ?」 「あの領域は時間の流れを感知する器官だ」 「それはもう聞いた」 「三半規管が重力を感知するのと同じだ」 「それも聞いた」 「三半規管がなくても人間は立っていられる」 「待てよ。おまえさっき……」 「重力を直接感知することはできなくなるが、間接的に推測することはできる。その時、三半規管の代わりをするものは二つある。ひとつは視覚だ。そしてもう一つは、目をつぶっていても、自分の手足の場所を感知してくれる固有感覚だ。この二つの感覚を総合して、大脳が重力の向きを推定して、体を垂直にできる。これと同じことが起きているんだ」 「つまり、どういうことだ?」 「あの領域を破壊した俺たちは、直接時間の流れを感知していないはずだ。だが、他の感覚は全て残っている。例えばこうだ」あなたはボールペンを摘み、床へ落としました。「三半規管によって、俺たちは重力の方向を知っている、物体は重力にしたがって落下することも知っている。手の中のボールペンと床のボールペン、どちらがより未来に属しているか、簡単に推測できる。俺たちの無意識が、持てる感覚を総動員して、時間の流れを決定しているんだ。くそ!」  あなたはボールペンを蹴飛《けと》ばしました。それは宙を舞って、壁にぶつかり、砕け散りました。 「ボールペンは砕け散る。でも、砕けたボールペンが自然に修復されはしない。その知識が邪魔をする」あなたは溢《あふ》れる涙を拭《ぬぐ》おうともしませんでした。「すべての常識を持たない赤ん坊に戻れれば、時間は簡単に逆行できるはずだ。ただ、皮肉なことに時間を逆行しなければ、赤ん坊にはなれない」  わたしたちは、おいおい泣きながら病院を出ました。そして、わたしは自宅に、あなたはわたしの研究室に戻って行きました。  家に帰るとわたしは心配そうにわけを聞く妻を押し退けて、浴びるようにウイスキーを呑《の》み、やがて昏倒《こんとう》しました。  次の日、目覚めるとわたしはきちんと寝間着に着替えて、ベッドの中にいました。ただ、何かいつもと違う妙な感覚がありました。部屋の中の様子が昨日までと微妙に違うのです。どこがどう違うというわけではありません。誰かがいったん部屋の中を荒らしてから、注意深く、元の場所に戻したという感じに似ていなくもなかったのですが、それとも少し違いました。ちょうど、それは何か月か生活している間に、自然に少しずつ小物の位置が移動したという感じでした。  わたしはその奇妙な感覚を二日酔いのせいにして、ダイニングに向かいました。  先に起きた妻が、すでに朝食を作っていました。 「おはよう。僕は昨日かなり飲んでいたのかな?」 「え?」妻は朝食の手を休めて、振り返りました。「あなた、何か勘違いされてらしてよ」 「勘違い?」 「そう。あなたは昨日の晩、今日の学会の記念講演の練習をして、早くに休まれたじゃありませんの」 「学会? 今日?」  今日、学会なぞ、あっただろうか?  わたしは書斎に予定帳を覗《のぞ》きにいきました。  今日は五月十五日だ。何の学会もないぞ。俺《おれ》が勘違いしているのだろうか? それにしたって、この一週間の予定の中には学会の�が�の字もない。どうやら、勘違いしているのは妻のようだ。  わたしは再びダイニングに戻り、食卓についてわたしを待っている妻に言いました。 「やっぱり、おまえ勘違いしているようだね。今日は学会はないよ」 「いいえ、そんなはずはなくてよ。『冒頭で講演するのは、栄誉あることだ』って、喜んでいらっしゃったわ」 「五月十五日って、言ってたかい?」 「いいえ。……五月?」妻は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せました。「何をおっしゃってられるのかしら? 今日は六月二十日よ」  わたしはその言葉を聞くと、立っていられなくなり、椅子《いす》にがっくりと座り込んでしまいました。そして、妻に微笑《ほほえ》みかけました。 「少し、疲れているらしい」 「大丈夫? 今日の学会はご欠席になったら?」  六月二十日にある学会なら、覚えていました。うちの大学である学会で、わたしが冒頭の四十周年の記念講演をすることになっていました。もちろん、欠席するわけにはいきません。 「心配ない。今度の休日にぐっすり休めば大丈夫だろう。ええと、ちょっと、テレビをつけてくれないか」  わたしはテレビの番組で、日付を確かめました。確かに、ひと月以上の時間が過ぎ去っているようでした。  そのまま、満足に朝食もとらず、わたしは大学に向かいました。  教授室も時間の経過を証明するように少し様子が変わっていました。  いったい、どういうことだろう? なぜ、ひと月分の記憶がないんだ? 妻の様子からして、特に空白のひと月に異常な行動をとっていたとは思えないが……これは単なる記憶喪失なんだろうか? それとも、日本人では稀《まれ》だと言われている多重人格になったのだろうか?  わたしは途方に暮れました。わたしを襲った症状の原因は、あなたが行った粒子線による脳内部の処置であるという可能性にはすぐに思い至りました。だとすると、検査や治療を受けるためには、どうしても、部外者のあなたに装置の使用を許したことを話さなくてはならなくなる。それはなんとかして、避けたい事態でした。  ああ、すぐに地位など問題でなくなってしまうことを、あの時は知らなかったのです。「先生、もうそろそろお時間ですので、大ホールまで来ていただけますか?」インターホンから、秘書の声が聞こえてきました。「講演用のディスクは、ホールのプレゼン・コンピュータに、セットしてありますから」  わたしは、おぼつかない足取りで、ホールに入りました。会場内にはすでに数百人の聴衆が待っていました。 「小竹田先生がいらっしゃいました。皆さん、拍手でお迎え下さい」座長がわたしを紹介しました。  わたしは拍手の中をまっすぐに舞台に進みました。なぜか現実感がなく、宙を歩いているような気がしました。まるで、もう一人の自分が体を抜け出して、空中から自分を観察しているような不思議な感覚でした。  皆、俺に昨日までのひと月間の記憶がないということに気づいていないのだ。このひと月の間にどんなできごとがあったのだろう? 最近のできごとに触れるのは危険だ。だいたい、俺は昨日まではまともだったのだろうか? ひと月前の後遺症が今日になって突然出たんだろうか? それとも、このひと月の間にたびたび、あったのだろうか? 「皆さん」演台上でわたしは話し始めました。マイクの調整に失敗したのか、スピーカーがハウリングを起こしました。不快な音が消え去るのを待って、再び話し始めました。 「今年、本学会は四十周年を迎えます」この時、わたしはふと、空白になったのはひと月ではなく、一年以上なのではないかという可能性を考えました。もしそうなら、ここでなんらかの反応があるはずです。少し、言葉を切って待つことにしました。会場は静かなままでした。 「この記念すべき大会で、講演をさせていただけることは非常に光栄なことだと思います。もちろん、これはわたしの業績にではなく、年の功に送られた栄誉でしょうが」  少し笑いがありました。このような学会では、普通、どんなことを言っても爆笑になったりはしないものです。だから、少しでも笑いがとれたことで、わたしは随分気が楽になりました。  さて、これから何を言えばいいんだろう? 俺はどんな短いスピーチでもアドリブでやることはない。何日も前から準備しているはずだ。そう、妻も昨日は練習していたと言っていた。同じ研究室のものたちは、練習を聞いていたのだろうか? ここで練習と違う話をしたりしたら、奇妙に思うだろうか? 待てよ。さっき秘書がプレゼン・コンピュータにディスクをセットしたと言っていたな。 「つまらない前置きはとばして、早速、本題に入りましょう」  わたしは演台に設置されているモニターのスタート・アイコンをクリックしました。すると、画面上に大きな文字があらわれました。  四十周年における提言    ——未来への展望を考える—— [#地付き]平成大学 医学部      [#地付き]小竹田丈夫       わたしの横にある巨大なスクリーンにも、同じ画面が映し出されている筈《はず》でした。画面を見れば何かを思い出せると考えたのですが、甘かったようでした。わたしは無言のまま、次の画面に進めました。何かのイラストが描かれていました。よく見ると地球の絵で、上に医療のグローバル化と文字があります。何のことか見当もつきません。そのまま先に進めました。少年が犬に追いかけられるCGアニメーションが始まりました。しかし、文字での説明はありません。わたしは焦りました。一言も話ができないのです。会場も少しざわめき始めました。何か一つでも適当な話をでっち上げられる絵がないかと、わたしは次々と、画面を進めました。スクリーン上には様々な文章やイラストやアニメーションが現れては消えていきました。時々、うまく話にできそうな画面が見つかりましたが、一言二言、話すとすぐにつまってしまい、また、次の画面に進みます。そして、とうとう最後の画面になりました。それは、すべて文字で書かれたまとめの画面でした。わたしは画面上の文字をそのまま読み上げ、一礼して、そのまま舞台から降りました。  一時間半の予定の講演でしたが、わたしが壇上にいたのは、十分ほどでした。 「ええ、あの、装置の具合が悪くて、記念講演は早めに終了させていただきます」  座長が焦っていました。無理もありません。わたしとしても、一世一代の大失態です。準備された席には座らず、そのまま、会場からこそこそと出て行きました。背中に聴衆の視線を感じます。  わたしの講演だけを目当てに来たわけではないでしょうが、これほど大きくプログラムを変更するのは滅多にないことです。文句が出ても仕方がありません。一番気の毒だったのは、わたしの次に予定していた発表者です。まだ、時間の余裕があると思っていたのにさぞかし驚いたことでしょう。  わたしは教授室に戻ると、わたしの筆跡で書かれている見知らぬ書類の山に一通り目を通してから、ぼんやりと外を眺めました。  もう終わりかな? でも、病気なんだから仕方がないんだ。だめだ、病気なら、なおさら教授は続けられない。どうすればいいんだろう? こんな症例は過去にあったんだろうか? 原因ははっきりしているんだ。同じ処置をした患者を探して調べればいい。しかし、治療として、こんな処置を受けた人間は過去にはいない。……一人を除いて。  わたしは研究室の学生を捕まえて、あなたの居場所を尋ねました。どの学生もここひと月ほど、あなたの姿は見かけなかったと言いましたが、一人の学生が今日の昼に学食の裏をぶらついていたのを見たような気がすると教えてくれました。  慌てて学食の裏に行きますと、ごみバケツの間に膝《ひざ》をかかえたあなたがいました。 「おい、血沼、おまえまさか残飯あさりをしてるんじゃないだろうな」わたしはあなたの腕を掴《つか》んで引き起こそうとしました。「おまえの助けがいるんだ。手伝ってくれ」  あなたは無表情にわたしの顔を見上げていましたが、やがてぽつりと言いました。 「おまえ、時の中を跳べるか?」 「なんだって?」 「わからないのならいい。おまえは関係ない」あなたはまた、自分の世界に戻ったようでした。 「よくわからないが、正直に言おう」わたしはあなたの肩を強く握りました。「脳を処置して、一晩寝たら今日だった」  あなたは突然立ち上がりました。そして、垢《あか》に塗《まみ》れた顔を綻《ほころ》ばせました。 「じゃあ、おまえも跳んだんだな。しかも、まだ一回だけだ。今日は何日だ?」 「六月二十日だそうだ」 「あの処置をしたのはいつだった?」 「五月十四日だ」 「じゃあ、ひと月ちょっとだな」あなたは少し考え込みました。「すまん。おまえに助言を与えたいんだが、俺の方も大変なんだ」 「やっぱり、おまえも同じ症状なのか?」 「ああ、おまえはまだ一回だけのようだが、俺はもう百回以上もだ」 「百回って、何が百回なんだよ?」わたしは混乱しかかっていました。「記憶の欠落が百回あったってことか? たったひと月に?」 「記憶の欠落? ああ、まだそう思っているんだな」 「どういうことだ? これは記憶の欠落じゃないのか? まったくわけがわからない。おまえは脳の処置をすれば、過去に戻れると言った。しかし、実際には記憶障害が起きただけだ」 「記憶の障害じゃない。おまえは未来に来たんだ」 「なんだって?」 「おまえは五月十四日から、六月二十日にタイム・トラベルをしたんだ」  わたしは笑いました。 「確かにひと月分の記憶がないから、五月十四日から直接六月二十日に繋《つな》がっているように感じられるけど、それは錯覚だよ。だいたい、過去にいくはずの俺たちがどうして、未来に来てしまったんだ?」 「理由はわからない」あなたは落ち着きはらって言いました。「俺は時間の中の移動については、過去から未来に移動することと、それと同じ速さで未来から過去に移動することだけを考えていたんだ。でも、おまえが体験した通り、俺も眠っている間に突然飛ばされてしまうんだ。自分では飛ばされる先を選ぶことはできない。きっと、俺の読みが浅かったんだ。何の根拠もないのに時間が連続体だと信じ込んでしまっていた」 「時間は連続体だろ」 「そのように見える。今だってそう感じる。それ以外に感じることは不可能だ。でも、実際には違うんだ。時間は連続していない。五月十四日が六月二十日に繋がっていないように、五月十四日と五月十五日も繋がってはいないんだ。いや、それだけじゃない。六月十五日の午後一時○分○秒と午後一時○分一秒も実は連続していないんだ。ただ、俺たちの脳があたかも繋がっているかのような錯覚を与えているだけなんだ」 「信じられない。もしそれが本当だとしても、どうして脳にそんな錯覚を作り出す必要があるというんだ?」わたしは食い下がりました。 「それはおまえも今日体験したはずだ。時間は連続していない点の集合なんだ。しかし、誰もが勝手にそれらの点に順番をつけて辿《たど》ったとしたら、人によって、物事の起きる順番が目茶苦茶になってしまう。そこで、脳は物理現象の連続性を満たすように時間の点に順番付けをするわけだ。俺たちは時間の順番付けをする脳の機能を破壊してしまった」 「今は普通に時間が流れているぞ」 「前にも言った筈だ。大脳が失われた機能の代わりをしているんだ。だが、眠ったときには大脳の働きは弱まってしまう」  わたしはあなたの顔をあきれたように見ました。 「信じられない。もし、俺が五月十四日から、六月二十日にタイム・トラベルをしたのなら、欠落は俺の記憶にだけ存在するのではなく、他の人間にも存在しなくてはならない筈だ。つまり、五月十五日から六月十九日まで、俺はこの世から消えていたはずだ」 「小竹田、おまえはよくわかっていない。タイム・トラベルと言っても、おまえの肉体ごと未来に送られたのではないんだ。送られたのはおまえの意識だけだ」 「それでも、つじつまは合わない。俺の意識が五月十四日から、六月二十日にタイム・トラベルをしたのなら、五月十五日から六月十九日まで、俺は意識不明になっていなけりゃならない。しかし、誰もそんなことは言わなかったぞ」 「だから、おまえにはまだ理解できていないんだ」あなたはにやりと笑いました。「もちろん、俺にも完全には理解できない。だが、こう考えればどうだろう。ここに時間の流れがある。その原因はなんであるかは不明だが、現に存在している。その時間にそって日付は順番が付けられている。五月十四日の次の日は五月十五日で、その次の日は五月十六日だ。ここに意識の流れがある。それは本来、時間の流れとは独立している。五月十四日の意識と十五日の意識は最初から繋がっているわけではない。脳の例の器官が時間の流れを感知して、十四日から十五日に時間が流れていることを確認してから、十四日の意識を十五日の意識に結合する作業を行うんだ。ところが、おまえの脳のあの器官は破壊されてしまった。だから、おまえの脳は五月十四日のおまえの意識をどこに繋いでいいのかわからなかったので適当に繋いだんだ。それがたまたま六月二十日だったというわけだ。つまり、五月十五日から、六月十九日までのおまえの意識は消滅したわけではない。ただ、五月十四日からの意識の流れに繋がらなかっただけだ。もう一度言うと、五月十五日から六月十九日までの間でも、おまえの意識はちゃんとあったんだ。ただ、おまえがそれを知らないだけなんだ」  わたしは首を振りました。 「確かにつじつまは合うかもしれないが、そんな途方もない仮説を立てる必要があるとは思えない。単純に記憶喪失と考えたほうが、ずっとわかりやすい。あの器官は記憶に関して、重大な働きをしていたんだよ」  あなたは大声で笑い出しました。笑いを止められなくなり、目からは涙をぼろぼろと零《こぼ》しました。 「わかりやすいのなら、そう思っていろよ。俺も最初はそう考えたんだ。……今ではこの仮説の方がずっとわかりやすい」 「血沼、一緒に検査を受けよう」 「検査なら、もう何度も受けたよ。おまえに検査してもらったこともある。別の意識の流れを持つ小竹田丈夫にな。でも、無駄だった。俺はもう諦《あきら》めた」 「諦めるな。望みはまだあるはずだ」わたしは言いました。 「望み? 望みは永久にあるよ。俺にも、おまえにも。……一つだけ、助言を与えよう。おそらく、俺はもうおまえに会えないだろう。おまえというのは、『小竹田丈夫』という意味じゃない。今、俺の目の前にいる、『小竹田丈夫』と同じ意識の流れを持つ『小竹田丈夫』という意味だ。わかるか?」 「いや。悪いが、全然わからない」 「おまえも俺に会える機会はあと何回もないかもしれない」あなたは言いました。 「ちょっと、待ってくれ。今、おまえはもう俺に会えないだろうと言った。それなのに、俺はおまえにあと何回か会えるってのか?」 「そう。確かにそう言った」 「矛盾している」 「いいや、全然矛盾していない。知恵があるのなら、よく考えろ」  そう言うと、あなたはゆっくりとわたしに背を向け、立ち去って行きました。わたしはあなたのあとを追えませんでした。これ以上話を聞くと、わたしまで、あなたの世界に引きずり込まれてしまうような気がしたからです。  学内にいても、つまらぬことをいろいろと詮索《せんさく》されるだけだろうと考えて、わたしはそのまま帰宅しました。 「あら? あなた、今日は学会のあと懇親会があるとおっしゃってらしたのに、随分お早いお帰りなのね」妻はこんなことは初めてだったので、かなり訝《いぶか》しげでした。  わたしはろくに返事もせず、書斎に入り、机に向かって今日の講演の言いわけをあれこれ考えているうち、つい、うとうととしてしまいました。  気がつくと、わたしはベッドの中にいました。最初は、おや、いつのまにベッドに入ったんだろうと、呑気《のんき》なことを考えていましたが、俄《にわ》かに眠る前のことを思い出し、飛び起きると壁にかかっている時計を見ました。針は七時を指していました。窓の外の様子からして、午前であることはわかりました。  そのまま階段を降りて、ダイニングに入り、妻に、 「おい、僕は昨日、何時頃寝てしまったんだろう?」と恐る恐る尋ねました。「仕事中につい眠ってしまって、風呂《ふろ》にも入らなかったようなんだが」 「お仕事? 嫌ですわ。あなた、昨日は随分お呑《の》みになってらしたのに、お仕事だなんて」  内臓の中から何か嫌な感じがしみだしてきました。  今度はいったい何日とばしてしまったんだろう? この調子でとばしてたら、あっと言う間に年月が過ぎ去って寿命がきてしまう。まるで、子供の頃読んだ『恐怖新聞』だ。 「ああ、そうだったね。二日酔いで、記憶が混乱しているようだ。ところで今日は何日だったっけ?」 「あら、冗談ですのね? 日付をお忘れになられたなんて」 「いいや、本当に忘れちゃったんだよ。われながらおかしいが、きっと、年のせいだろう」  妻はけげんそうな顔をしましたが、ちゃんと、答えてくれました。 「今日は五月十五日ですわ」  わたしは妻の言葉を確かめるためにテレビをつけました。確かに五月十五日でした。さて、これはどういうことだろうかと、わたしはいくつか可能性を考えました。  ㈰ 五月十四日から六月二十日にタイム・トラベルし、さらに、六月二十日から五月十五日にタイム・トラベルした。  一番、素直に考えた答えです。しかしこれを受け入れると、今まで数十年に亘って蓄えたわたし個人の経験と、数千年に亘って蓄えた人類全体の常識が覆されることになってしまいます。わたしとしては、これ以外の答えがすべて否定されでもしない限り、これを採用したくはありませんでした。  ㈪ 大掛かりな悪戯《いたずら》をわたしに対して、何者かが行っている。  あなたも、妻も、研究室の学生も、学会員も、全員がぐるになっていたことになります。これはちょっと考えにくいことですし、こんな大規模なひっかけを行う理由がわかりません。テレビ番組のためだったとしても、これでは予算オーバーでしょう。  ㈫ 五月十四日の夜から、五月十五日の朝に見た夢の内容が六月二十日のできごとだった。  夢にしては生々し過ぎたし、理路整然とつじつまが合い過ぎていましたが、わたしはこの説をとることにしました。精神衛生上、最も都合がよかったからです。  とにかく、大学に行くことにしました。  研究室ではあなたが机に座って何か書きものをしていました。 「血沼、朝っぱらから、何をしてるんだ?」 「昨日の失敗の原因を再検討し、解決策を考えてるんだ」 「ふうん」わたしはあなたも、同じ処置を受けていたことを思い出しました。「ところで、今日、起きた時に何か変わったことはなかったかい?」  そう、ここであなたから、何も変わったことなぞないという答えを得られれば、すべて夢だったということで、納得ができると思ったのです。 「起きた時? いや、別に」  わたしはほっとしました。しかし、あなたの言葉には続きがあったのです。 「というより、昨日から一睡もしてないんだけどね」あなたはわたしの顔が曇ったことを見逃しませんでした。「おや、急に黙ったな。……何かあったな! おい、そうだろ! 俺に教えてくれよ!」  わたしは前日——正確には、前日ではなくて、ひと月後というべきかもしれませんが——に体験したことを事細かく、あなたに教えました。 「うーん」あなたは唸《うな》りました。「それはまた奇妙なことだな。時間が連続体でないなんて、信じられない。そんなことを主張するなんて、正気の沙汰《さた》とは思えない」 「おまえの口からその言葉を聞くとは思わなかったよ」 「とにかく、その男——未来の俺の言葉が正しいとすると、この計画はあながち失敗だったとは言えないかもしれないぜ」 「そうかもしれない。でも、俺が未来からやってきたという証拠はあるか? 例えば、俺がひと月後のことを予言して的中したら、それが証拠になると考えていいのか?」 「一つや二つ予言が当たっても、誰も信じるもんか」 「一つや二つじゃないさ。百発百中だ。なにしろ、現に未来にいたんだからな」わたしはそう言った後、照れ隠しに続けました。「もちろん、未来に行ったと信じてるわけじゃないけど」 「百発百中にはならないよ」 「なぜ?」 「小竹田、おまえは未来に行って、未来世界を観測した」あなたは自信たっぷりに説明を始めました。「それはつまり、波動関数が収束したということだ。六月二十日の世界は形のない茫漠《ぼうばく》たる非実在の波動《なみ》に過ぎなかったが、おまえが観察したお陰で一つの可能性だけが収束し実在化したわけだ。核戦争が起きている非実在世界もあったし、革命が起きていて、大学がなくなっている非実在世界もあった。おまえの記念講演が大成功している非実在世界もあった。だが、おまえの観察によって、それらの無数の非実在は消滅し、一つだけが実在化してしまったんだ」 「だから? 六月二十日はもう収束して確定してしまったんだから、俺の予言は必ず、当たるはずだ」 「それはおまえの中の六月二十日のことだ。だが、俺を含めておまえ以外の人間にとっては、六月二十日はまだ未来なんだ。つまり、原理的に観測不可能だ。観測していない波動関数が収束していれば量子力学はなりたたない」 「結論を言ってくれよ」わたしは自分のものわかりの悪さに苛立《いらだ》ちを感じました。 「つまり、六月二十日が来れば、改めて、波動関数は収束し直す。その収束した結果は必ずしもおまえの体験した六月二十日と同じとは限らない。言い換えると、おまえの予言は当たらない」 「待ってくれよ。それじゃあ、未来に行った価値がないぞ。俺は子供のころから、ずっと考えていたんだ。もしタイムマシーンが手に入ったら、未来に行ってその世界の情報を手に入れて、現在に帰るんだ。そうすれば、競馬、株価、宝くじなど、これから起きることがなんでもわかって、大金持ちになれる……。今の話が本当だとしたら、タイム・トラベルにはなんの旨味《うまみ》もない」 「いいや、だからこそタイム・トラベルには価値があるんだ。現在は過去から見れば未来なんだ。過去に戻れば、気に入らない現在を改良できる」あなたの顔が輝きました。 「確かにそうだ。だから血沼、おまえは時間の逆行を狙《ねら》ってたんだろう。つまり、過去に戻りたかったわけだ。でも、俺は未来に行っただけだ。過去にはかすりもしていない」 「いいや。おまえは時間を遡《さかのぼ》ったんだよ。六月二十日から五月十五日にな」 「え?」わたしはしばらくあなたの言葉を反芻《はんすう》して理解しようと努めました。「でも、六月二十日は未来で、五月十五日は現在だ。確かに、六月二十日が現在なら、五月十五日は過去ということになるけど、現実にはまだ、六月二十日にはなっていないぜ」 「小竹田、おまえ、タイム・トラベラのくせにいやに硬直した考え方しか持ってないんだな。どうして、五月十五日を基準にして、過去、現在、未来を決めるんだよ。おまえにはもうそんな分類は意味ないんだよ。現におまえは六月二十日を過去として体験しているじゃないか」 「そこのところがよくわからない」わたしはもやもやをはっきりさせようとしました。「今は現に五月十五日だ。これは紛れもない事実だ。五月十五日は目前に存在している。一方、五月十四日はすでに過ぎ去っている。つまり、もうなくなってしまっている。どこにも残っていないはずだ。どこかに残っていたら、それは過去ではなく、現在ということになる。そして、五月十六日はまだ来ていない。だから、どこにもない。どういうことかと言うと、過去と未来は存在していないんだ。一方はすでに存在し終わっているし、もう一方はまだ存在していない」 「おまえはすでに六月二十日を体験したんだろ。まだ、存在していないはずなのに」 「そうなんだ。だから、あれが夢でないとすると、未来は現存していることになる。でも、いったいどこに?」 「何度も言っているように、それは、小竹田、おまえの脳が作り出している錯覚なんだよ」あなたは言いました。「錯覚というのはこういうことだ。時間は過去・現在・未来に三分割できる。そして、未来は刻一刻と現在になり、同時に現在は次々と過去になっていく。ちょうど、ビーズに糸を通すようなものだ。糸が時間でビーズがある所が現在、ビーズが通ったあとの部分が過去、そして、これからビーズが通る部分が未来。でも、本当か? 糸が時間だとするとビーズはなんだろう?」 「ビーズは人間だ」 「じゃあ、未来や過去に人間はいないのか?」 「ビーズは人間の意識だ」わたしは訂正しました。 「未来や過去の人間には意識はないのか?」 「……じゃあ、ビーズはなんなんだ?」 「ビーズなんて、ないんだよ」あなたは鼻で笑いました。「時は流れてはいないんだ」 「でも、血沼、おまえは一昨日——昨日、言ったぞ。脳が時の流れを感知しているって」 「あれは例えだ。おまえが理解しやすいだろうと思ったんだ。正確には時間の流れではなく、時間の方向性と言うべきだろうな。方位磁石は北の方角を示すけど、いつも、その方向に風が吹いてるわけじゃないのと同じだ」 「待ってくれ。俺《おれ》には何のことか、さっぱり理解できない」わたしは理解することを諦《あきら》めかけていました。 「理解できないのなら、無理にする必要はないさ。これから、徐々に理解していけばいいんだ」 「ああ、少しずつ、教えていってくれ」 「そいつは無理だろうな」あなたは突き放すようにいいました。 「なぜ?」 「六月二十日の俺が言ってたんだろ——たぶん、その俺は今の俺と同じ意識の流れを持っているんだろうが——もう、会うことはないだろうって」 「どういうことだ?」わたしは尋ねました。 「たいしたことじゃない。これから、俺は一眠りするつもりだからさ」 「どこか別の日に行くつもりなのか?」 「ああ、だから小竹田、もうおまえとは会えないかもしれない」あなたは静かに言いました。 「たとえ、眠ってもおまえの意識が別の日時に流れていくだけで、おまえは消えたりしないはずだろ」 「血沼壮士は明日も存在するさ。でも、その意識の流れは今の俺と繋《つな》がっているという保証はない。だから、ここで別れを言っておく。あばよ」  あなたは研究室から出て行きました。そして、廊下に出てから、一度だけ振り向いて言いました。 「おい、俺たちの目的を忘れるなよ! 俺とおまえとどちらにチャンスが巡ってくるかわからないんだからな!」 「目的?」 「馬鹿野郎! 手児奈だ!」  あなたはもう二度と振り向きませんでした。わたしは止めどもなく溢《あふ》れ出る涙を通して、遠ざかっていくあなたの後ろ姿を廊下の角を曲がって見えなくなるまで、追い続けました。  その後、わたしは妙に冷静になって、現状の分析を始めました。  よく考えると、今の状態もそれほど悪くないかもしれない。  もし、タイム・トラベルの体験が夢だったとしたら、なんの問題もない。現状は好転していないが、悪化もしていないのだ。  そして、本当に俺がタイム・トラベラになっているのだとしても、悲観的になる必要は全然ない。いや、それどころか、大きなチャンスかもしれない。  確かに、何の心構えもなく未来に行ってしまったから、学会で大失敗をしたけれども、そんなに深刻になる必要はなかったんだ。そう。都合の悪い未来は改変すればいいんだ。主観的には学会で俺は失敗をしでかしたが、誰もそんなことは知らない。学会はまだ開催されていないんだ。つまり、俺は何の失敗もしていない。失敗をしていないというだけではなくて、失敗すると決まっているわけでもない。なぜなら、波動関数はまだ収束していないから。ということはうまくすれば、失敗を避けられるはずだ。  わたしは記念講演を成功させるための方策を検討しました。  その日の晩、わたしは早く寝ました。もちろん、一回で望みの日時に到着できるとは限りませんが、だめでも、何度でも繰り返せばいいのです。例えば、さいころを振って、一回で一の目をだすのは難しいのですが、一が出るまで何度でも振れるとすれば、それはそれほど難しいことではありません。さいころの一が出る確率は六分の一です。これは六回に一回必ず一が出るという意味ではありません。この辺を勘違いしている人はわりと多いのですが、五回続けて一が出なかったら、次は百パーセント、一が出るのかというとそうではありません。やはり、六分の一なのです。それでも、十回続けて、一が出ない確率は十六パーセントしかありませんし、二十回続けて一が出ない確率は二・六パーセント、五十回続けて一が出ない確率は百分の一パーセント、百回続けて、一が出ない確率は百万分の一パーセントしかないのです。これは事実上ゼロと考えてもいい値です。これと同じように、すぐには目的の日に着かなくても、根気さえあれば、いつかは目的の日に辿《たど》り着く自信がありました。そして、幸運なことに、一回目で目的の日に目が覚めました。  その日は六月十九日でした。  わたしは大学に行くと、すぐに秘書を教授室に呼びました。 「中乙女さん、明日の講演で使うディスクはもう完成しているね」わたしは秘書に訊《たず》ねました。 「あ、はい。昨日、お渡ししましたよね」 「そうだったかな」わたしは慌てて、机の中を探りました。「ああ、ここにあった。あのね、中乙女さん、今回の発表ではプロンプタ・ソフトを使おうと思ってるんだ」  プロンプタ・ソフトというのは、講演者の見ているモニターに、講演原稿を字幕スーパーのように表示する一種のカンニング・ツールです。もちろん、聴講者用の大スクリーンには字幕は表示されませんから、ばれる心配はありません。 「えっ? 先生がお使いになるんですか?」秘書は少し驚いたようでした。 「そうだよ」わたしはできるだけ落ち着いた様子で答えました。 「先生は今まで一度もプロンプタを使われたことはないんじゃないですか」 「僕が使っちゃおかしいかい?」 「いえ、別におかしくはありません。でも、先生はプロンプタを使うことを嫌っておいでだったでしょ。学生がプロンプタを使っているのに気づいたりしたら、怒ってらっしゃったこともあるし」 「もちろん」わたしは前もって考えてあった言いわけを言いました。「通常の研究発表にプロンプタを使うのはあまり好きじゃない。プロンプタを使うとどうしてもモニターばかりを見てしまうから、聴講者にプロンプタを使っていることがわかってしまうんだ。わたしもそうだが、大学の先生はプロンプタを使う発表者をあまり信用していない。早い話が自分の発表内容を理解していなくても、文字を棒読みするだけで発表できてしまうんだからね。だから、僕は自分の学生にはプロンプタを使わせないんだ。他の研究室では学生に使わせているところもあるようだけど、やっぱり、使っている学生はよくわかってないことが多いよ。質問してみるとすぐばれる。どんな質問が来るかは前もってわからないから、プロンプタには答えは出てない。そんな学生は、しどろもどろになって恥をかくだけだ。  しかし、今回は研究発表じゃなくて、記念講演なんだ。途中で原稿をど忘れしたりしたら、みんなに迷惑がかかってしまう。それにわたしがプロンプタを使っていたって、まさか、発表内容を理解してないなんて誰も思わないよ」 「ああ、そうだったんですか」秘書は納得できなかったようでしたが、わたしにたてつくことは何のメリットもないと判断したのか素直な反応をしました。 「それでだ。君はこのソフトの使い方を知っているかね?」  禁止令にもかかわらず、密かにプロンプタを使っている学生がいることを、わたしは知っていました。秘書はかれらの手伝いをしていたはずです。 「はい、少しですが」  よし。いいぞ。 「じゃあ、頼みがあるんだけど、僕に使い方を教えてくれないか?」  秘書が了解すると、わたしは一通り発表用ぺージを見て、発表内容を推測する作業を始めました。この間は本番の講演で初めて見たので、気が動転して、内容を読み取ることができなかったのですが、こうして落ち着いて見ると、大筋の見当はつきました。意識の流れに繋がりはないとはいえ、自分がつくったのですから。ただ部分的に、この間とは内容が変わっているような感じがするのが気になったのですが、おそらく勘違いだろうと深く考えませんでした。  プロンプタ作成の手順は、まずわたしが原稿を考え、秘書にそれをプロンプタに入力していってもらいます。そして実際にわたしが操作してみて、ちゃんと画面に応じて台詞がモニターに表われるかどうかチェックするのです。わたしが不慣れだったせいもあって、全作業が終わったのは夜の九時を回った頃でした。 「いやあ、こんな遅くまですまなかったね。今度、食事にでも招待するよ」 「いいえ、結構です」秘書はすこし不機嫌なようでした。「今度からはもう少し早めに言ってください。前日になってからでは大変なんですから」  反対にわたしは少しうきうきしていました。プロンプタは完璧《かんぺき》にできていました。明日のわたしはこのプレゼンテーションの内容をまったく知らないのですが、プロンプタが出れば、慌てずに発表はこなせるはずです。ただ一つ問題だったのは、講演の最後に行われる質疑応答でした。どんな質問がされるかわからないので、答え用の台本を作ることができないのです。しかし、当然ながら、発表内容に関してわたしは素人ではありませんから、大抵の質問には適当に答えをでっちあげることはできるはずです。  わたしは意気揚々と家路につきました。  次に目覚めた日は学会から、一週間後の日でした。  研究室の皆の様子を見ても、特に変化は見られませんでした。どうやら、記念講演はうまくいったようです。わたしは念を入れて、学会に出席していたはずの友人に電子メールを送りました。 ————————————————————————————————————————————— 小竹田@平成大学です。 しばらく、会ってませんが、いかがおすごしですか? 先日の学会はどうだったでしょうか? なんだか、大きなミスをしたような気がするのですが、月花さんからはどう見えたでしょう? 来年はハワイで大会があるようですが、出席はされますか? 出席されるなら、夜は一緒に呑《の》みにいきましょう。 それでは、失礼。 平成大学 医学部 小竹田丈夫 shinoda @○.heisei.ac.jp —————————————————————————————————————————————  三十分程して返事がありました。 ————————————————————————————————————————————— 月花%今日も二日酔いだ@白鳳医短です。 〉先日の学会はどうだったでしょうか? なんだか、大きなミスをしたような気がするのですが、月花さんからはどう見えたでしょう? いや、特に失敗という感じじゃなかったですよ。まあ、わたしは半分居眠りしてしまいましたが、わたしが起きているときは、立派に講演されてましたよ。 〉来年はハワイで大会があるようですが、出席はされますか? 出席されるなら、夜は一緒に呑みにいきましょう。 どうしていまさら、こんなことを言うんです? あの日、みんなで懇親会に行ったじゃないですか。あの時、今度の大会には行けないと言ったはずですが。そう言えば、 〉しばらく、会ってませんが、いかがおすごしですか? というのは、どういうことです? 何かの冗談ですか? 白鳳医短 月花健吉 tukihana @ haku○.ac.jp —————————————————————————————————————————————  当日会っていたかどうかを確かめずに、連絡してしまったのは少し軽率でした。でも、とんでもない大きなミスというほどでもありません。些細《ささい》なことですから、別に言いわけのメールを送らなくても、ほっておけば自然に忘れてくれるだろうと思いました。それよりも、わたしは自分の計画がうまくいったことで、有頂天になってしまいました。わたしの考えは正しかったのです。わたしは自由に歴史を改変できるのです。歴史の改変! それがこんなに簡単なことだったとは! 歴史を改変したとたんに、未知の衝撃が襲いかかって来るのかと思っていましたが、まったく、なんの兆候もありませんでした。  そもそも、わたしはどの時点で歴史の改変を行ったのでしょう? 最初に計画を立てた時点。六月十九日に目覚めた時点。大学に来て、秘書を呼んだ時点。秘書とプロンプタを組んだ時点。夜、眠った時点。今朝、起きた時点。あまりあっけなかったので、見当もつきません。それに、わたしの記憶では講演は失敗しているのです。ということは一週間前に講演に成功したわたしは今のわたしと別人——少なくとも、別の意識の流れを持つということでしょうか?  とにかく、わたしは神にも等しい能力を手に入れたのです。この世はすべてわたしの都合のよいように改変すればいいのです。  わたしはスキップをしながら、教授室から駐車場に向かいました。  おお、俺は全能だ。俺は全知だ。俺に等しきものはいない。……本当に?  わたしは神がもう一人いることに気づきました。  わたしはそのあとも、タイム・トラベルを繰り返しました。  七月五日。七月十一日。六月三十日。八月一日。九月十五日。六月二十二日。八月十三日。八月五日。八月四日。  そして、五月十四日。わたしはあなたと、粒子線|癌《がん》治療装置制御室にいました。あなたは言いました。 「こんなことで言い争いをしている時間が惜しい。この装置の使い方を教えてくれ」 「嫌だ」わたしは言い放ちました。 「なぜ?」あなたは目を見開き、「どうして、今になってそんなことをいうんだ?」と詰めよりました。 「いいか。どんな優れた理論にでも、実際に応用するときにはいろいろな問題が出てくるものだ。だから、どんな医療行為も最初は動物実験を十分行ってから、臨床試験を行う」わたしは一息つきました。「おまえ、動物実験はしたのか?」 「いいや。……おまえ、俺に動物実験しろっていうのか? そんなことをしても無駄だよ。動物は口がきけないから、タイム・トラベルに成功しても、それを教えてはくれない。それに、人間以外の動物に意識の流れなんてあるんだろうか?」 「確かに。となると、いきなり人体実験を行う以外にはないだろう」 「わかってくれたか」あなたはほっとした表情を浮かべました。「早く、使い方を教えてくれ」 「その必要はない」わたしはポケットから携帯コンピュータを取り出しました。  あなたはしばらく口がきけないようでした。そして、自分もポケットに手を突っ込むと、ゆっくりと携帯コンピュータを取り出しました。 「こりゃ、奇遇だ。二人とも同じものを持っていたとは」わたしは驚いたように言いました。 「俺はおまえが俺の処置をしてくれなかったときのことを考えて持ってきたんだ」 「なるほど。俺の方は偶然だ。おまえと会う前にちょっとした計算をしてたんで、そのまま持ってきてしまったんだ。でも、これで俺は自分で処置をできる」 「自分で?」あなたはかわいそうに、随分驚いたようでした。 「そう。脳の処置をするのは俺だけだ」 「馬鹿な! まず、俺だ」 「いいか、血沼。落ち着いて考えるんだ」わたしは諭すように言いました。「もし、おまえを最初に処置して、失敗したらどうなる。死んだり、廃人になったりしたら? もうこの研究は続けられなくなる。でも、俺だったらどうだ? 俺がどうにかなっても、おまえさえ、無事なら研究は続けられる」 「……確かにそうだが……」 「さあ、その領域を教えてくれ」  今回はあなたの方が催眠術にかかったようでした。わたしにぽつりぽつりと、領域の範囲を教えてくれました。本当のところ、わたしはあなたに聞く必要さえなかったのです。前に五月十四日を経験した時に教えてもらったのですから。わたしはあなたに不信感を抱かせないために、敢えて尋《たず》ねたのです。  あなたの説明が終わると、わたしは手際よくプログラムし、装置に潜り込みました。  そして、不快で不吉な時間。  再び、わたしは息も絶え絶えになって、外に這《は》い出しました。 「大丈夫か?」 「ほっといてくれ!」わたしは不快感のあまり怒鳴りつけてしまいました。「血沼、どうやら失敗のようだ。変化はない」  あなたはうろうろと落ち着かない様子で処置している間のわたしの脳波や脈搏《みやくはく》などの記録を調べていましたが、やがて首をふり、うなだれました。  二人はそのまま一言も口を利かず、外に出ました。二、三分歩いた後、ふと、あなたは言いました。 「小竹田、まさか騙《だま》したんじゃないだろうな」 「騙した?」わたしは内心の動揺が顔に出ていないことを祈りました。「何のことだ? 俺が本当は処置されていないのに処置されているように振る舞っているっていうのか? 馬鹿なことを言うなよ。俺の脳を調べれば、ちゃんと処置されていることはわかるはずだ」 「そうじゃない。俺が言っているのはそんなことじゃない」あなたは小刻みに震え出しました。「俺は今とんでもないことを思いついた。おまえは独り占めしようとしていないか」 「何を?」 「タイム・トラベルの能力を」 「なぜ、そんなことをするんだ?」 「それはつまり」あなたの目は血走っていました。「タイム・トラベルの力を知っていたからだ」 「いったい、いつ?」 「もちろん、未来でだ。おまえは未来から来た。……くそっ! 騙したな!」あなたは出てきた病院の方へ走ろうとしました。 「無駄だよ。俺が一緒でなければ、あの部屋には入れない」あなたは立ち止まり、わたしを振り返りました。 「おまえは何を狙《ねら》っている? 大金を手に入れるのか? それとも、世界征服か?」 「どちらも魅力的だな。しかし、俺は別に決めていないよ。どっちでも、気が向けばできるんだから。唯一、俺を阻む能力を持った者は消滅した」 「ごうぉー!」あなたは足元にあった大きな石を掴《つか》み上げると、わたしの頭に振り下ろしました。  気が付くと、教授室の机の上で、うたた寝をしていたようでした。  何日だろう?  わたしは腕時計の日付表示を確かめました。六月十九日です。時刻は夜の十時でした。  いったいいつから眠っていたんだろう? 六月十九日に居眠りした記憶はないのに。わたしはトイレに行き、鏡で頭を調べました。予想通り、傷跡があります。もうほとんど治りかけていました。  なるほど。俺はあの時血沼に殴られて、昏倒《こんとう》した。そして、意識を失ったことにより、タイム・トラベルしてしまったんだ。前の五月十四日にはそんな事件は起きなかった。つまり、あの事件で少し歴史が変わったから、居眠りしていないはずの時に居眠りしていて、そこに意識の流れが繋《つな》がったんだ。しかし、生きていたからよかったものの、気を失うほど殴るなんて、なんて奴《やつ》だ。あれから、どうなったんだろう? 血沼は警察につかまったんだろうか? まさか、喋《しやべ》っちゃいないだろうな。まあ、喋っても誰も信じやしないだろうが……。  わたしは帰り支度を始めましたが、ふと、明日の発表のことを思い出して、プロンプタの確認のためにプレゼンテーション用のディスクをコンピュータにセットして、起動しました。  一瞬、気が動転しました。プロンプタの内容が消えていたのです。ディスクを間違えたのかと思い、机の引き出しという引き出しをひっくりかえしましたが、他には出てきません。とにかく、秘書の家に電話をかけました。 「もしもし、中乙女です」 「もしもし、小竹田です。夜分、申し訳ない」 「どうしたんですか?」 「あのね。発表用のディスクね、どこにしまったか、覚えてないかね?」 「発表用のはいつも、先生がしまってるじゃないですか」 「そうでなくてね、プロンプトが入ってるやつだよ」 「そんなの知りません」 「あの、知ってるはずだよ。今日作ったあれだよ」 「今日? 今日は何も作ってませんが」 「え? あのプロンプタだよ」 「何のことかわかりません。だいたい、先生はプロンプタが嫌いじゃなかったんですか。いつも、学生がプロンプタを使うのも禁止しているのに、どうして、ご自分が使われるんですか?」 「ちょっと、まあ、勘違いしたようだ。どうも、すまなかった」 「悪い冗談なら止めてくださいよ」  秘書は不機嫌そうに電話を切った。  わたしは努めて冷静になろうとしました。  落ち着け。落ち着くんだ。焦っても、事態は好転しない。逆に冷静にさえなれば、解決策は見えてくる。順序立てて考えるんだ。  最初に六月二十日に来た時には、プロンプタはディスクに入っていなかった。しかし、俺が六月二十日を観察するまでは可能性は一つに確定していなかったはずだ。入っている状態と、入っていない状態が対等に非実在として存在して、波動《なみ》になっていた。そこへ俺が登場し、ディスクの中身を観察したことにより、波動関数が収束し、入っていない方だけが実在化した。  それからわたしは再び、過去に戻った。そして、波動関数は再び発散した。  次に十九日に現れた。そこで、わたしはプロンプタをディスクに入れることにより、強制的に波動関数を収束させた。  そのまま、わたしは二十日をとばして、未来に行ったが、未来に行くことは、過去に行くことと違って、時間の順序の逆転は起きないから、波動関数は収束したままだったんだ。わたしはプロンプタがあった方の実在の中にいた。  ところが、わたしは五月十四日という過去に一度、戻ってしまった。その瞬間、波動関数はまた、発散してしまったんだ。  六月十九日に戻り、わたしはディスクの中身を見て、波動関数を収束させてしまった。プロンプタが入っていない方に。  さて、どうすれば、いいんだろう?  現実逃避して、このまま寝てしまうっていうのも、答えの一つかもしれない。わたしは過去か未来のどこかに目覚める。明日の記念講演なんか関係ないのかもしれない。しかし、過去に目覚めれば、また、波動関数は発散してくれるが、未来——明日も含めて——に目覚めれば、ディスクにプロンプタが入っていない状態に収束したままだ。それは、おそらく、不快な状況を意味するだろう。  一方、今晩徹夜するのも、一つの手だ。そうすれば、明日の講演を行うのは別の意識の流れを持つわたしではなく、今のこのわたしということになる。わたしは前にプロンプトを作る時にプレゼンテーションの内容を見ているから、完璧《かんぺき》とはいかないまでも、そこそこごまかしのきく講演はできるはずだ。でも、明日の講演まで、本当に一睡もしないなんて、可能だろうか? ほんの一瞬の居眠りも致命的だ。  やはり、今晩中にプロンプタに完全なプロンプトを入力しておくのが賢明だろう。  わたしはプロンプトの作成を始めました。一度、やったことを繰り返せばいいのだから、それほど難しくはないだろうと、たかをくくっていたのですが、始めてみると、プレゼンテーションの内容が、前とは変わってしまっていたので、結構てこずりました。プロンプタをいれるかどうかということ以外にも収束する毎に変化するポイントがかなりあったのです。作業は遅々として進まず、明け方近くになっても、まだ半分も終わっていませんでした。そして、ついうっかり、二、三秒居眠りをしてしまったのです。眠るつもりはなかったのです。ただ、目をつぶって、頭を休めるつもりでした。実際、眠ったという感覚はありませんでした。しかし、次に目を開けた時、わたしは公園のベンチに座っていました。  太陽の光が燦々《さんさん》と降り注いでいます。大学の近くのわたしもよく知っている公園でした。人影はあまりなく、あちらこちらに、ぽつりぽつりと親子連れがいるくらいでした。日付機能付き時計を見ると、六月二十日の昼前で、今の時間にこんなところにいるということは学会の途中で飛び出してきたのでしょう。きっとわたしは、講演に失敗したのでしょう。その光景が手にとるようにわかりました。当初おどおどと話し始めたわたしは、プロンプタに気付き、安心して半分ぐらいまでは講演を終えたはずです。しかし、プロンプタは突然作動しなくなります。実際には作動しなくなったのではなく、本来、入っているべきプロンプトが入力されてなかったからなのですが、わたしは、最初からプロンプタがなかった場合よりも、もっとショックを受けて動転したに違いありません。ひょっとすると、講演をいきなり中断して、そのまま走ってこの公園まできたのかもしれません。わたしは再び目をつぶり、眠り込むことにしました。  それから、わたしは毎晩、タイム・トラベルを繰り返しました。六月二十日より、未来に目覚めた時の状態は大きく分けて二種類ありました。講演に成功している場合、もう一つは講演に失敗している場合です。  朝起きて、前者の場合だと気づいた時、わたしはほっと一息ついて、無気力感に襲われ何もせずに、一日を過ごすのですが、夜が近付くと、明日は悪夢の世界かも知れぬという不安に苛《さいな》まれ、悶《もだ》え苦しみながら眠りにつきます。  後者の場合、わたしはまず、机の引き出しを探ります。運のいい時は睡眠薬が見つかります。運悪く、見つからなかった時は大学に行って、持って帰ってきます。その時、量は怪しまれない範囲でなるべく多くしておきます。その次の日以降にやってくる別のわたしのためです。どちらにしても、午前中に、ストレートのウイスキーで、睡眠薬を飲み下だし、無理やりタイム・トラベルするのです。  前者の場合でも、後者の場合でも、一度六月二十日以前に戻らなければ、状況の変化はありません。つまり、講演に成功していれば、成功しているままだし、失敗していれば、失敗しているままです。しかし、一度でも六月二十日以前に戻ると、講演の成功・失敗は再び、不確定になります。その時点から、六月二十日以後に行った場合、成功しているか、失敗しているかはわからないのです。  六月二十日より、過去に目覚めた場合、わたしは大学にとんでいって、ディスクの中身を調べます。そして、もし、プロンプタが入っていなかったり、入っていても不完全だった時は慌てて入力作業に入ります。あまりにも遠い過去に行ってしまった時にはプレゼンテーション自体ができていない時もあって、その時はプレゼンテーション作りから始めました。  まる一日かけて、ふらふらになって作っても、目覚めるとその前日に戻っていて、全てが無駄になってしまうことも何度かありました。かと言って、無駄な努力はしたくないからと講演の準備をしなければ、失敗する可能性は大きくなる一方です。  日にちが迫っていて、なお、準備ができていないときは、最後の手段として仮病を使います。半年以上も前なら、別にもっと尤《もつと》もらしい理由をつけて、講演自体を断ることもできるのですが、数日前では病気以外の理由は思いつきませんでした。事務局に、急病になったから講演を中止してくれ、と連絡するのです。ただ、そう言ったにも拘《かか》わらず、当日、何も知らない別の意識の流れを持つわたしがのこのこ学会に出かけて、不様な講演を行ってしまうこともありました。また、この方法はあまり早い時期には使えないという欠点があります。周りは医者だらけですから、単純な仮病は見抜かれてしまいます。それに、何日間も続けて診察を受けたりしたら、わたしの記憶が正常でないことがばれてしまうでしょう。  時々は講演の当日に目覚めることもありました。完全なプロンプタが用意されていることもありましたが、不完全になっている時もあり、全く入っていない時もありました。入っていても、入っていなくても、たいていは、うまくいきました。講演内容は殆《ほとん》ど頭に入っていましたから。それでも、時には内容が大幅に変化していたり、わたし自身が極度に疲労|困憊《こんぱい》していて、失敗してしまうこともありました。そんな時はすぐ家に帰り、睡眠薬を飲みます。しかし、完全な絶望の中にいたわけではありません。一つだけ希望がありました。  そのような生活が何十日も、いや、ひょっとすると、何百日も続いた後、わたしはみたび、五月十四日に目覚めました。あの日です。そう、希望の日です。  病院へ向かう道すがら、わたしはあなたの提案——粒子線|癌《がん》治療装置で脳の一部を破壊して、時間の束縛から解放されようという提案を、断固拒否しました。 「いったい、どういうわけなんだ?」あなたは信じられないと言いたげでした。「なぜ、嫌がる? 手児奈を救いたくないのか?」 「この挑戦は危険すぎる」夜道を歩きながら、わたしは懸命に理由をでっち上げようとしました。 「危険かどうかは、やってみなけりゃ、わかるもんか!」 「失敗だとわかっても、やり直しはきかないぞ」わたしはあなたを諭すように言いました。「おまえの理論には何か見落としはないか?」 「見落としなんかあるもんか!」 「本当にそうかな? 時間流を探知できなくなることがすぐに時間の逆行に繋《つな》がるという根拠が薄弱だ」 「……もちろん、必ずしも逆行するとは限らない」あなたは、少し考えてからいいました。「でも、仮にまったく自分で制御できないとしても、時間の中で進んだり戻ったりを繰り返していれば、そのうち手児奈が生きている時間に辿《たど》り着けるはずだ」 「気の長い話だ。いいだろう。百歩譲って、時間の逆行が可能だとしよう。でも、おまえ、どうやって、逆行する時間の中で生活するつもりだ?」わたしは架空の時間逆転状態をでっちあげてあなたに思いとどまらせることにしました。脳の処置によって、単純に時間が逆行することはないのですが、あなたはまだ知らないのですから、十分説得力はあると思ったのです。「食事の時は口の中から吐き出した食物を皿の上に箸《はし》やフォークで綺麗《きれい》に盛り付けていかなきゃならない。歯を磨く時は排水溝から吹き上げる汚水を口に含み、歯ブラシで汚水に浮かぶ歯糞を歯のすきまに詰め込み、きれいになった水をコップに吐き出すんだ。トイレでは、便器から跳ね上がる大便を肛門《こうもん》から吸引するんだ。風邪を引いた時にはごみ箱から取り出したティッシュから鼻水をすすらなければならない。それらを全部やるつもりか?」 「汚いと思うのは錯覚だ。通常の時間の流れから見れば、なんでもない」 「他人との付き合いはどうする? 言葉は全部反対に聞こえるんだ。おそらく、録音したものを逆転再生したように聞こえるはずだ」 「そんなことは慣れれば問題じゃない。外国語の習得と同じだ」 「そんな単純なことじゃない。正常な時間の中に生きている相手と逆行する時間の中に生きているおまえが話をすることは、ほぼ不可能だろう。互いに今まで相手が話したことはまったく知らず、これから話すことは知っている。互いに相手の会話を最後から聞いていくことになるんだ。そして、血沼、おまえは会話の流れを逆に辿ってまだ、尋ねられてもいない質問を推測し、先に答えなければならない。できるのか」  あなたはしばらく、唇を噛《か》んで黙っていましたが、やがて、ゆっくりと言いました。 「多分できない。しかし、それは障害ではない」 「なぜ?」 「俺《おれ》と話をする人間は俺の精神状態が正常でないと判断するかもしれない。そして、なんらかの措置をとるかもしれない。だが、それは俺と話をする前ではなく後だ。ところが、話をした後は俺にとっては、話をする前だということになる。つまり、誰かと話をしても、その後に災厄が待っているわけではないんだ」  わたしは自分で議論を仕掛けたのにも拘わらず、混乱してわけがわからなくなってしまいました。  自分が経験してもいないことを言うから、おかしくなるんだ。自分の経験に則して話せばいいんだ。  そう考えて、わたしは言いました。 「おまえは時間の連続性が処置後も保存されると思っているみたいだが、そうとは限らないぞ。おまえはいきなり、何日も未来や過去にとばされるかもしれない。やりかけの仕事がとばされる度に無駄になってしまうんだ。そんなことに耐えられるか?」  あなたはしばらくわたしの顔を見つめていました。 「時間が連続体でないと考える理由はない。なぜ、そんなことを言う?」  しまった。疑念を抱かせてしまった。 「おまえは時間が連続体でないと思っているのか?」あなたの声は少し震えていました。「それとも、時間が連続体でないことを知っている[#「知っている」に傍点]のか?」  毎回、あなたの勘の鋭さには感服します。しかし、今回はわたしの方が一瞬早く行動しました。あなたが石を拾い上げる前に、ポケットに隠し持っていた薬を染み込ませたハンカチを使ったのです。ぐったりとなったあなたをわたしは病院に連れ込みました。わたしはあなたが急にわけのわからないことを叫んで、わたしにくってかかり、そのまま昏倒《こんとう》したと、嘘《うそ》を言いました。当直の医師は簡単に診察したあと、病室にあなたを運ばせました。これで十中八九、今晩中には薬物反応を調べないでしょう。明日になれば、薬物の痕跡《こんせき》は見つからなくなります。あなたは、何か言うかもしれません。しかし、それはわたしの望むところです。医師たちはあなたの精神錯乱を確信することでしょう。仮にあなたがうまく立ち回って、早く退院したとしても、打つ手はいくらでもあると、わたしには妙な自信がありました。  実は今日だって、血沼を説得する必要はなかったんだ。俺はただ、血沼を狂人として扱って何を言っても取り合わなければよかったんだ。俺が血沼を説得しようとしたのは、あいつにも諦《あきら》めて欲しかったからだ。そして、なんとかして救ってやりたかったんだ。一度は神になるためにあいつを邪魔な存在だとも考えた。でも、その力は幻の力に過ぎないと知り、自分の限界を知った今、あいつだけを苦しみの中に放ってはおけないじゃないか。  しかし、結局無駄だった。俺は血沼を説得できなかった。これでいいのだろう。あいつの錯乱は俺のせいではない。俺はできるかぎりのことを血沼にしてやったんだ。もはや、手のくだしようはない。  そう考えて、わたしは自分を正当化しようと懸命になっていたのです。  とにかく、脳の処置を免れたということが、その晩、わたしを何百日ぶりかで、安心して眠りにつかしてくれました。  目覚めると、一週間前に戻っていました。  わたしは腕時計の日付を見た瞬間、絶叫してしまいました。妻が慌てて、階段を上がってきました。 「あなた、どうかなさったの?」 「ああ、今日は何日か、教えてくれ。頼むから、五月七日だなんて言って、俺を騙《だま》すような真似はやめてくれよ」 「あら、何のこと? おからかいになっているのはあなたね。あなたを騙す気はありませんよ。でも、今日は、五月七日だわ」  わたしは再び絶叫しました。  そう、脳の処置を行わなかったのにも拘わらず、わたしは、タイム・トラベラのままだったのです。なぜだかは今になってもわかりません。ただ、思うのは脳と精神は別のものだったということでしょう。そして、時間の流れを探知していたのは脳ではなく、精神の方だったのです。脳の一部を破壊することは精神の一部を破壊することだったのです。その精神をまったく傷のない脳に移しても、破壊された精神は元には戻らないのです。ちょうど、ビデオ・テープと記録されている映像のような関係だと思えばいいのでしょうか。なにかの番組を録画したビデオ・テープの一部に傷をつければ、番組のその部分は消えてしまいます。ある人が番組の一部をみることができないのはテープの傷のせいだと考えたとします。そこで、その人は新しいまったく傷がないビデオ・テープを用意して、傷のついたテープから、番組の内容を全てダビングしたとします。その人は新しいテープに傷がないことから、録画されている内容も完全な形に戻ったと考えるかもしれません。しかし、実際にはテープに欠陥がないにも拘わらず、録画内容は不完全なままです。それと同じようにわたしの脳を完全な形に戻しても、わたしの精神はもはや修復しないのかもしれません。もちろん、この解釈が正しいという保証はありません。  とにかく、その日以降もわたしは時間の中を跳躍し続けました。  毎日、毎日、わたしは講演の準備をし、後悔し、睡眠薬を飲み、八つ当たりし、妻を怒鳴りつけ、講演に失敗し、眠りにつき、仮病をつかい、泣きじゃくり、講演に成功し、神に許しを乞い、また最初から準備をやり直し、絶望しました。  そして、主観的な時間で数年が過ぎた時、大跳躍が起きました。  わたしの時間跳躍はたいてい数日から、数か月の範囲でしか起きませんでしたが、何千回かごとに数年から数十年の大跳躍が起きるのです。その時のわたしはそんなことは知りませんでしたが、それが最初の大跳躍だったのです。  目覚めると、わたしは浪人生に戻っていました。最初は夢だと思っていたのですが、時間が経つにつれ、現実であることが実感されてきました。わたしは昔の自分の部屋にいて、机の上には参考書や問題集が山積みになっていました。どの一冊を広げても、広げた瞬間にぺージの間から、ある種独特の香りが立ち上がり、苦しくも懐かしい日々が蘇《よみがえ》ります。ただ、蘇った日々はわたしの脳裏にあるだけではなく、わたしを取り巻く現実でありました。しばらくは、あの未来の地獄の月日から解放された喜びに浸っていましたが、この時代も決して、幸福な時代ではなかったことを思い出して、暗い気持ちに戻りました。  わたしは部屋から出て、朝食を食べにダイニングに行きました。わたしは無意識に妻の姿を期待していました。しかし、わたしの目に飛び込んで来たのは、新聞を読む父の姿と、テレビを見ながら朝食の準備をする母の姿でした。そう。彼らは死者でした。  その時、わたしの胸に去来したのは懐かしさや親愛の情ではありませんでした。それは恐怖でした。死者を目の当たりに見る原始的で単純な、それでいて強力な恐怖でした。 「おい、丈夫、何、ぼうっとつっ立ってんだ?」父が新聞から顔を上げて、わたしを見ました。 「どうしたんですか?」母もわたしを振り返って見ました。 「いや、なに、丈夫の奴《やつ》がわしらの顔をあんまり不思議そうに見てるんでな」 「丈夫、どうかしたの?」  わたしは首を振りました。そして、崩れるように食卓につきました。 「どうした? 勉強疲れか?」  確かにわたしの意識が十代の時代に戻ったのなら、父母が生きていて当然です。 「勉強も大切だけど、あまり遅くまで頑張り過ぎたら、体を壊すよ。ほどほどにね」  わたしの主観の中では彼等はすでに死んでいるのです。 「しかし、丈夫も今年が正念場だ。少し、無理をするくらい仕方無いんじゃないか」  主観と客観の視点の変化だけで、死んでいたものが生きていてもいいのでしょうか? 「でも、病気にでもなったら、元も子もないわ」  死とは絶対的なものだと、思ってました。 「一日やそこら、寝なくても病気にはならんだろ」  父はわたしが二十歳の時、母は二十五歳の時、亡くなりました。 「直ぐには病気にならなくても、体に疲れが溜《た》まるのよ」  火葬場でその骨も見ました。 「わしだって、毎日四時間ぐらいしか寝とらんが、病気一つしないぞ」  その死がこんなに簡単に覆されていいのでしょうか? 「丈夫はあなたみたいに頑丈じゃないんです」  死だけは避けようがなく、取り消すことができないものだと信じていました。 「どっちにしても、あと、一ヶ月で終わりだろ」  死は善いとか悪いとか判断するものではなく、善悪を越えた絶対的な、そして、完全に平等な宇宙の法則だと考えて、論理の礎にしてきたのです。 「ええ。それから、第二志望の方は、あと一週間」  それが今、目前で簡単に覆ってしまいました。 「死に物狂いでやるしかないだろう」  脳にちょっとした細工をすることによってです。 「今年こそはね」  死とはそんな軽いものだったのです。 「まあ、別に駄目だったとしても、諦めろとは言わんがね」  わたしはいたたまれなくなって、外に飛び出しました。 「おい、丈夫!」  家から出た途端、ダンプカーにひかれました。  目覚めたのはその三日前でした。  受験勉強にはまったく、手がつきませんでした。もはや、わたしが平成大学に合格したことも非実在になってしまいました。かと言って、どうして今、自分が受験勉強をしなければならないのか、その理由が見つけられませんでした。受験勉強をした意識の流れを持つわたしが受験するとは限らないのですから、その場合は勉強しても意味がないことになってしまいます。たとえ、うまく受験できて、合格したとしても、過去へ一度戻れば、全ては非実在へと逆戻りです。それから何度も合格発表の日以降に目が覚めましたが、合格していることよりも、不合格だったことの方が遥《はる》かに多かったのです。なぜなら、全く受験勉強をしていなかったのですから。  合格したとしても、今まで築き上げてきた人生は医学部の教授の椅子《いす》も含めて全て非実在になってしまっているのです。それらを再び築き上げることができたとしても、次の日にはすべて波動関数の海の中の非実在として消え失せてしまうかもしれないのです。ああ、なんという無駄でしょう。なんという努力の浪費でしょう。そうして、身も心も疲れ果て、ぼろぼろになったころ、また大跳躍がありました。  その後のことは詳しく話す必要もないでしょう。ただただ退屈な長い長い物語です。わたしは自分の人生のいろいろな時代に現れ、その度にわたしの生涯は悪化していきました。嬰児《えいじ》から、老年期まで全ての時期を経験しました。胎児だったこともあります。ぼんやりした光の中で、くぐもった音を何十日も何年も聞き続ける。あなたにその苦痛がわかるでしょうか? 人には胎児回帰願望があるといいますが、とても信じられません。しかし、人生のそれ以外の時期がとりわけ胎児時代よりも素晴らしいわけではありません。  わたしの親は資産家でした。これはわたしの生まれる以前に波動関数が収束して実在化していたことなので、発散して非実在化することはありませんでした。わたしは客観的な昨日のことは知りません。これは他人からは、記憶障害と見えます。だから、定職につくことは困難ですが、なんとか土地や株や家を売って、食いつないでいます。いつかはなくなってしまうのではないかと思われるかもしれませんが、資産はわたしと一緒に跳躍することはないので、目覚める度に増えたり、減ったりするだけで、なくなることはありません。  無職でも社会で生きていくからには、他人との繋《つな》がりを完全に断ち切るわけにはいきません。記憶のない人間にとって、付き合いは大変な苦労です。わたしは眠る前には日記をつけることにしています。明日の見知らぬ自分へのメモ、もしくは、手紙というわけです。そして、目覚めるとすぐ、昨日の自分からの手紙を読みます。それを今日の自分の行動の規範にするのです。ただ、数十年分の日記は、膨大な量になりますから、実際に読めるのは最後の数か月分だけです。それでも、毎朝読むのはかなり疲れます。一日のできごとを文章にまとめるのにも限界があります。体験したことをすべて書いておくのは不可能ですから。だから、それだけの努力をしても、昨日のことすら曖昧《あいまい》なわたしは正常な人間としてなかなか扱ってもらえません。  何と言っても困るのは、幼児時代です。幼児が詳細な日記を毎日つけるのは目につきますから、毎日、前日のメモを読んだ後、捨てて新たにまとめて短く書き直すのです。それではかなりの情報が失われてしまうので、行動がちぐはぐになって、問題を起こします。両親はたいそう悲しみます。そういう原因からでしょうか、時には精神科に入院している状態が実在化することもありますが、それはそれほど深刻なことでもありません。  自殺したことも何百回とあります。初めは、薬とか、首|吊《つ》りをしていたんですが、意識がなくなると、跳躍して別の日に目が覚めるので、列車に飛び込んだり、拳銃《けんじゆう》で頭を撃ち抜いたりするようになりました。結果は同じでした。死ぬと同時に跳躍が起こるようです。その場合、当然かもしれませんが、未来に飛ばされることはありません。それ以降の人生は消滅するわけですから、常に過去です。そして、過去に行った途端にわたしの死は非実在化してしまいますから、また、わたしの人生は波動関数の中の無数の非実在として復活するのです。そんなわけで、最近は自殺もしなくなりました。  そうですね。主観的にはもう、何万年も生き続けています。もはや、何も残っていません。絶望さえも枯れ果てました。  そうそう。今でも、時々、不思議に思うのですが、手児奈はいったい何者だったのでしょうか? 手児奈の言動を振り返ってみると、最初から、すべてを知っていたかのように思えます。なぜ、手児奈は知っていたのでしょう? あるいは、長い時間の間にわたしの手児奈に関する記憶が少しずつ変化して、あたかも、手児奈がなにもかも知っていたかのように脚色してしまったのでしょうか? わたしにはそうは思えません。なぜなら、思い出は美化されるもののはずだからです。手児奈の思い出は恋人の思い出としては不気味過ぎるのです。でも、今のわたしはその不気味な思い出にすがって生き続けているのです。それでいいと思っています。  小竹田の話は終わった。背中にかいた汗のせいで、ワイシャツはぴったりと、背中に貼《は》りついてしまった。 「今のは、あなたの作ったSFですか? それとも、ホラーっていうやつですか?」 「あなたに信じる義務はありません。ただ、あなたが真実を求めたので、それに答えたまでです」 「もし、今の話が真実であるとしたら……あなたは初めての理解者を得たことになります」わたしは小竹田に手を差し出した。本当に、その男の話を信じたわけではなかったが、少なくともこの男の心は信じたかったのだ。 「いいえ、わたしは眠り、そしてどこか別の日に目を覚まします」小竹田は無表情に言った。「そこでは、もはやあなたはわたしを知らない。もちろん、同じ話をまた、繰り返すこともできます。でも、それもまたはかない。うつろいゆく」  わたしは頭の整理をしようとした。 「確かに、あなたの主観ではそうでしょう。しかし、わたしの主観では違いますよ。わたしは眠って起きても今晩のことは覚えています。場所を教えてくれれば、あなたの家に訪ねていって、何か力になれるかもしれない」 「わたしはわたしの主観から逃れられないのです。あなたの主観の中でわたしが救われようと、わたしにはどうでもいいことです」  この男はたぶん嘘《うそ》は言っていないだろう。この男の表情や話し振りから、そう推察できる。だが、嘘でないということと、事実であることは同じではない。今の話はすべてこの男の妄想かもしれないのだから。もし、妄想であるならば、救うことができるかもしれない。 「結局、謎《なぞ》が残りますよ」 「そう。すべての謎は解明されつくすことはないでしょう。ああ、気を悪くしないでください。どうぞ、その謎とやらをおっしゃってください。わかる範囲でお教えしましょう」 「つまりですね。わたしとあなたは二人とも脳の処置を受けたわけですね」 「そうです」小竹田は答えた。 「そして、二人とも、タイム・トラベラになった」 「そうです」 「あなたは実際に経験したし、わたしもどうやら同じような経験をしたらしい」わたしは続けた。「さて、小竹田さん、あなたは処置の前に戻った。その途端、処置は非実在化した。そして、二人とも処置を受ける未来、わたしだけが処置を受ける未来、あなただけが処置を受ける未来、二人とも処置を受けない未来がすべて平等に非実在化して可能性として存在していたわけですね」 「はい」 「そして、あなたは、三つ目の未来、つまり、あなただけ処置される未来を実在化して、あとの未来を消滅させたわけです。したがって、わたしはタイム・トラベラでなくなった」  小竹田は黙って頷《うなず》いた。 「それから、あなたはもう一度処置前に戻り、あなただけが処置される未来を非実在化し」わたしの声は思わず大きくなった。「その代わりに二人とも処置されない未来を実在化しようとした。しかし、状況は変化しなかった。なぜです?」 「それはさっき説明したはずです」 「いいえ、あなたが、タイム・トラベラであり続けている理由を訊《き》いているのではありません。わたしが訊いているのは、わたしがタイム・トラベラでなくなった理由です。あなたがタイム・トラベラなら、わたしもタイム・トラベラのはずだ」  わたしは相手を論駁《ろんばく》した壮快感を覚えた。だが、小竹田は無表情に答えた。 「血沼さん、あなたは嘘をついてはいないのですね?」  わたしは自問自答した。俺はタイム・トラベラか? ノーだ! 「嘘はついていません」 「なるほど。説明の方法はいくつかあります。でも、どれが真実なのかはわたしもわかりません。そのうちの一つは、『あなたは本当はタイム・トラベラで、嘘をついているだけだ』というものですが、これは今否定されました」 「他の解釈は?」 「波動関数の収束の時の状態によるという考えです」小竹田は事務的に答えた。「意識には波動関数を収束させる力はありますが、それ自体は波動関数ではないのです。わたしが二人とも処置されない未来を実在させた時、わたしの精神は処置された未来から来ていたのです。だから、新しく、実在化した世界でもタイム・トラベラであり続けた。それに対し、あの時のあなたの精神は処置される前のものだったため、そのまま、実在の中に固定されてしまったのです」 「タイム・トラベラとしてのわたしの意識はどうなったんです?」 「消滅したんでしょう」 「今ここにいるこのわたしには実害があるわけではないけれども、ぞっとしない話ですね」わたしは独り言のように言った。 「別の解釈もあります。一つの主観に対し、一つの平行世界が存在しているという考え方です。つまり、タイム・トラベラのあなたは消滅したのではなく、こことは別の平行世界でまだ存在している。ひょっとすると、わたしと同じように孤独なのかもしれません」 「それもまた、いやな感じがしますね」 「そして、血沼さん、こんな解釈もあります」小竹田はすこし言葉を止め、息を吸った。「『あなたはタイム・トラベラなんかではなかった』という解釈です」 「え?」  ついに、自分の妄想を否定し始めたのだろうか? 「つまり、わたしは、血沼さん」小竹田はわたしの顔を指差した。「あなたにはめられたということです」 「なんですって?」 「脳の処置の結果どうなるかを知っていた。だから、自分は処置を受けたふりをして、わたしの脳だけに処置をしたのかもしれない」 「なぜ、そんなことを?」わたしはうろたえました。 「手児奈を救うにはこの方法しかない。しかし、処置を受けたものは永遠に時間の中をさ迷うことになる。あなたは自分をそんな状態にはしたくなかった。だから、わたしを生け贄《にえ》に選んだ」 「まさか」 「最初の処置は自分でプログラムしたのだから、いくらでも、ごまかせます」小竹田はわたしの顔を見つめた。「わたしだけを処置して、次の日にわたしの話を聞きにきた。わたしが、六月二十日に行って帰ってきたことを知ったあなたはその日まで待てばよかったのです。そして、その日のわたしに会って、自分もタイム・トラベラになったかのような芝居をしたわけです」 「…………」  そうなのだろうか? 俺はそんなに卑劣なやつなのか? 「血沼さん、これが真実だとしても、わたしは今のあなたを責めたりはしません。今のあなたとは全然別のあなたなのですから。それに、この解釈はあまり気に入っていません」 「なぜですか?」 「まず、もしそうなら、あなたの芝居は完璧《かんぺき》過ぎます。最初の跳躍でわたしがいつに行くかもわからないし、二回目の跳躍で翌日に戻ってきたのも偶然です。五月十五日に出会ったわたしが百回の時間旅行を済ましていたとしたら、あなたは、つじつまをあわすことすら不可能だったはずです。また、あなたの狂信的な状態から考えて、手児奈のためなら、永久に時間の中をさ迷うこともいとわなかったはずです。それに、あなたはあまり、わたしを信用していなかった。手児奈を助けることを放棄するかもしれない」ここで、小竹田は少し言葉を切った。「他にも解釈があります。あなたはやはりタイム・トラベラだという解釈です」 「いえ、それだけはありえませんよ」 「どうしてですか?」 「あなたは常にうつろいゆく現実にすんでいる。そう主張されますね」わたしは言った。「タイム・トラベラであるあなたにとって、もはや実在などというものは存在しないからです。しかし、わたしの世界は実在の世界です。うつろいゆく非実在とは関係ありません。タイム・トラベルの能力など持っていないんです」 「そう思っているんですね」小竹田はにやりと笑った。「本当に? よく考えて下さい」  この男は何のことを言っているんだろう? 俺の現実は常に確固たる実体を持っている。勝手に俺の知らぬ間に変わっていたりしない。……本当に? 「いいですか、血沼さん」小竹田は自分の頭を両手で抱えるようにした。「タイム・トラベルは能力などではないのです。それは能力の欠如なのです。わたしは『時間を認識する能力』、『時間を制御する能力』、『波動関数を再発散させない能力』、その他、いろいろな能力を失ってしまった。あなたには『時間を認識する能力』や『時間を制御する能力』はあるようです。時間の順序が狂うことはないようですから。ところで、『波動関数を再発散させない能力』は持っておられますか? 本当に街は昨日のままですか? 行きつけの店の場所は変わっていませんか? 昨日の職場と今日の職場は同じですか? 友達の中に見知らぬ人はいませんか?」 「わかりません」わたしはぼんやりと小竹田を見た。「答える代わりに一つだけ質問してもいいですか?」 「どうぞ」 「あなたは手児奈を助けたのですか?」 「愚問です」小竹田はたんたんと答えた。「わたしとあなたは、あの日、病院で脳に処置を行いました。あの処置が原因なのです。手児奈はあれが原因となって生じた存在だからこそ、すべてを知っていた。最近はそう思えるようになってきました」 「ちょっと、待ってください」わたしは反論した。「それはいくらなんでもおかしいでしょう。矛盾している。手児奈が死んだことが原因になって、われわれ二人は脳に処置を行ったはずでしょ、あなたの物語では。ところが、今のあなたの言葉では物事の因果関係が逆転してしまうことになる」 「雨、あがったようですよ」店の従業員が呼び掛けてきた。外を見にいったようだ。  そうか。これで帰れる。変な男の話に付き合って、少し気分が悪くなったが、まあ、話としては面白い。退屈せずにすんだだけ、得だったかもしれない。 「血沼さん、やはり、あなたに話すべきではなかった」小竹田は幽霊のような悲痛な声で言った。「結局、あなたは理解できなかったのです。わたしたちの——手児奈の物語をあなたはすべての物事の間に因果関係を持ち込んで、理解しようとしている。でも、そんなことはなんの意味もないのです。限られた理解力しか持たないわれわれの脳があまりにも複雑な世界に対面した時に壊れてしまわないために脳自身が設定した安全装置——それが因果律なのです。われわれが理解している世界はわれわれの脳の中の幻想に過ぎないのです。われわれ人間はその幻想なしには生きていけない。タイム・トラベラのわたしでも時間の前後関係と因果関係をよりどころにしなければ、思考することもできない。そして、自分自身の人生から逃れることもできない。この小竹田丈夫以外の視点をもつことはできないのです。  しかし、わたしは、因果を越えた世界に住む存在を垣間見たのです。それは一個人の中に閉じ込められてはいないのです。その存在は時に人間であることもあります。それとも、そう見えるだけなのでしょうか? とにかく、それはすべての時間に存在します。不老不死だというのではありません。誕生とか、死とかには無関係なのです。あなたの体が空間上のある一定の容積を持つ領域に広がっているように、時間の中に広がっているそんな存在です」  こいつはまだ、よたばなしを続ける気なのだろうか? 「楽しいお話でしたが、雨もあがったので、わたしは帰ります。あなたも一緒にどうですか?」わたしは小竹田に言った。 「血沼さん、あなたの持つ幻想の一つの例として、こういうものがあります。『物語を聞いたからには、その物語の語り手は実在しなければなら——』」  小竹田はいなかった。ただ、いないだけではなく、彼がいたという痕跡《こんせき》も残っていなかった。小竹田が飲んでいたはずの水割りも消えていた。わたしはただひとりぽつんと座っていたのだ。  小竹田から目を離してはいなかった。しかし、消えた瞬間のことは、たった今のことなのに記憶になかった。小竹田と眼前の虚空との間になんの繋《つな》がりも見いだせない。  全身に悪寒が走った。なぜか頭だけは燃えるように熱くなった。小竹田の波動関数が傍らを通り過ぎながら、ひろがっていくのが感じられるような気がしたからだ。  店の誰かに訊《き》くのは簡単だった。  今、僕と話していた男、どこに行ったか知らないかな?  いいえ、お客様、ずっと一人で飲んでられましたよ。  そんな返事が帰ってきたら、もはや立ち直れないだろう。そんな答えを笑い飛ばし、おおかた、あの小竹田とかいう男とぐるになってひっかけてるんだろう、と言うことぐらいはできるかもしれない。でも、わたしは敢えて何も言わず、店を出た。  空には満月がかかっていた。  もう、この店に来るのはよそう。探して見つからなかったりしたら、不安になってしまうからな。もちろん、それは単に俺が方向音痴だからなんだ。それ以外に理由はないんだ。自分を不安にすることはない。ああ、俺はどうかしていた。見も知らぬ男の話を延々聞いていたなんて。いったい、何時間ぐらい話していたんだろう?  時間を調べようとして、腕時計が無いのに気がついた。  どうしたんだろう? 朝、家を出た時にはちゃんと、はめていたはずだ。会社に置き忘れたんだろうか? そんなことは今まで一度もなかったのに。ひょっとすると、あの店に忘れたんだろうか? でも、探しには戻れない。  迷いながら、わたしは地下鉄の駅へと潜り込んだ。ホームにはわたしと同じように雨があがった後で、酒場から出てきたと思しき酔客が大勢見受けられた。中には宴会の続きのつもりらしく、演歌を歌っているやつらもいた。わたしはいらいらした。喧《やかま》しかったからではない。彼等への羨望《せんぼう》が耐えきれなく強かったからだ。  あいつらは幸運にも知らないでいられるのだ。おそらく、一生、酒場の隅で見知らぬ親友に会う事はないだろう。でも、俺は会ってしまった。もう死ぬまで、忘れることはできない。この現実が実在であるという実感は永久に失われてしまった。それとも、ただ、俺は酔ってメランコリックになっているだけだろうか? そう。きっと、あの店に戻って腕時計のことを訊《たず》ねるべきなのだ。たとえ、時計が見つからなくとも、怖がることはない。店員が見落としているだけかもしれない。どこか他の場所に忘れてきたのかもしれない。誰かがこっそり持っていった可能性だってある。  じゃあ、もし、店員が俺のことを覚えてなかったら?  店員が客の一人一人を覚えてなんかいるものか。  たった、今、出ていったばかりの客なのに?  中には物覚えの悪いやつもいる。ど忘れってこともある。  店にいるすべての店員に訊くことはできるのか? もし、だれ一人、自分のことを覚えていなかったら?  自分の担当以外の客のことなんか、気にかけるもんか。  店がなくなっていたら?  家の方への電車がホームへ入ってきた。わたしは開いたドアの前で硬直し、電車に乗ることができなかった。わたしをホームに置きざりのまま、ドアは閉まった。徐々に呼吸が楽にできるようになり、わたしはゆっくりと、地上への階段へと向かった。  店がなくなっていたりするものか。見つからないとしても、それは店がなくなったからじゃない。単に俺が方向音痴で、場所を見失ったということだろう。  じゃあ、もし、自分がいなかったら?  わたしは立ち止まった。  今、俺は何を思ったんだ? 自分がいないとはどういう意味だろう? やっぱり、俺は酔っているんだ。今日はこのまま帰ろう。駅から出たらまた切符を買い直さなければならない。店まで戻らなければ、時計はなくしてしまうかもしれないが、戻ったところで、時計はないかもしれない。そうなったら、時計と切符と両方を失ってしまう。しかし、このまま帰れば、確実に時計だけの損で済む。ええと、確かゲーム理論で言うところのミニマックス戦略——最悪の事態を想定してなお最大の利得、もしくは、最小の損失を得る戦略——だ。今は、このまま、帰るのがそのミニマックス戦略だ。  わたしは次に来た電車に乗った。酔客が多く、座ることはできなかった。この時間に帰る時はいつもこうだ。さながら、第三のラッシュ・アワーだ。  人込みの中、わたしはぼんやりと考えた。家を建ててから、もう何年になるんだろう?  毎日、同じ経路で会社に向かい、同じ経路で家に帰る。ずっと、変わっていない。当たり前だ。そんなに簡単に世界がころころ変わってたまるもんか! どうして、あの男の話を信じる気になったんだろうか? あの男の話に何か鬼気迫るものがあったからだろうか?  ああ、もう降りる駅だ。早く家に帰らないと、女房の機嫌を損ねてしまう。どうして、みんな降りないんだ? みんなちょっと、どいてくれよ。俺はここで降りなきゃならないんだ。ああ、やっと、降りられた。きっと、自転車は雨でびしょ濡《ぬ》れだろうな。嫌だな。何も拭《ふ》くものがない。尻《しり》が冷たいだろうな。この階段えらく長いな。もうくたくただ。やっと、出口が見えた。おや? 違うぞ。ここは俺の降りる駅じゃない。どうして、いつもの駅だと思ったんだろう? 結局、切符を損してしまった。いったい、家に帰れるのは何時になるのか?  わたしは無意識に腕時計を見た。  十二時を過ぎていた。  ゆっくりと、鳥肌がたってきた。  何故、俺は腕時計をはめているんだ? さっき、腕時計がないように思ったのは只《ただ》の錯覚だったんだろうか? それとも、いつの間にか、俺はあの店までこの時計をとりに帰ったんだろうか? いやいや、絶対そんなはずはない。おかしい。おかしい。何かが狂い始めている。いつからだろう? ああ、そうだ。今日はみんなで呑《の》みにいったんだ。そして、俺だけが残った。  何故?  雨が降ってきたから、タクシーで帰ろうとしたんだ。それで、俺だけがあぶれた。だから、小竹田は話しかけてきたんだ。  どうして、話しかけてきたんだろう?  親友だったからだ。  誰と誰が?  俺と小竹田が。いやいや、そんな筈《はず》はない。あの男とは今日が初対面だったんだ。いつ、親友だったと言うんだ?  一度も来なかった日々に。  家が見えてきた。でも、俺は隣の駅で降りた筈だ。一駅分、歩いたんだろうか? それとも、無意識にまた、地下鉄に乗ったんだろうか?  小竹田は手児奈のことを自分達の脳の処置が原因となって生じた存在だと言った。あの男は錯乱している。明らかに、手児奈の死が原因となって、脳の処置が行われたはずだ。その逆ではない。いや、そもそも、そのような処置が行われたという証拠はない。今日、俺が小竹田に会ったという証拠も。小竹田という男がいたという証拠も。  わたしは暴走しそうになる脳を押さえ付け、なんとか家に辿《たど》り着いた。玄関でしばし呆然《ぼうぜん》としていると、横で妻が何か言っていた。 「……から、遅くなるなら、早めに電話してよね。心配するじゃない」 「雨が降っていたんだ」 「あら、本当? この辺りでは全然よ。でも、雨だからって、電話をしなかった理由にはならないわ」 「友達に会ったんだ。大学時代の」 「あら、なんて人?」妻の目が光った。 「それは言えない」 「どうして?」  わたしは妻との会話を打ち切り、風呂場《ふろば》に向かった。 「わたしには言えない人?」妻は食い下がった。「女?」  わたしは返事をしなかった。 「知ってるわ」妻はにたりと笑った。  翌朝は雨だった。  わたしは傘をさして、駅へと向かった。道端のすべてのものが気になった。  あそこにある木は昨日もあっただろうか? なんだか、見覚えがないような気がする。こんなところに舗装のへこみがある。いままで気がつかなかったんだろうか? ここの家の門はこんなに立派だったろうか? 小学校の横は空き地だったろうか?  路地から出てきた男がわたしに黙礼した。  この男はわたしの知り合いだろうか? それとも、ただ、反射的に挨拶《あいさつ》しただけだろうか? この男の顔にはなんとなく見覚えがあるような気がする。しかし、そんな気がするだけかもしれない。挨拶を返すべきだろうか?  わたしも黙礼した。  この男、今、妙な顔をしたのではないだろうか? 本当は知り合いでもなんでもなかったのではないだろうか?  わたしは駅についた。  ああ、駅のホームはこんなに広かっただろうか? 思い出せない。このホームで待つ人達の中に俺の知り合いはいるのだろうか? それともいないのだろうか?  わたしは俯《うつむ》きながら、電車を待った。  顔を上げてはいけない。見覚えのない知り合いに目が合ってしまうかもしれない。  電車がホームに入ってきた。わたしは素早く乗り込んだ。混んでいるので、座ることはできなかった。やがて地下鉄は地上に上がった。窓の外を眺めていると、街のこまごまとした様子が目に飛び込んでくる。  あんなところに雑貨屋がある。あそこには墓地がある。今まで、気がつかなかったのだろうか? それとも、昨日まではなかったのだろうか? おや、もう、着いてしまった。俺は降りなければいけない。でも、本当だろうか? 会社にはこの駅からいけるのだろうか?  駅前のあの背の高いビルに俺の会社はあるのだろうか? 昨日まではそうだったのか? そうだったような気がする。でも、はっきりとは思い出せない。この受付嬢は昨日までと同じだろうか? あんまり、じろじろ見てはいけない。何気なく見るんだ。やはり、少し、違うような気がする。おれの職場は何階だったろうか? 五階だったろうか? それとも、六階だったろうか? 五階だ。五階に違いない。ほらそうだ。ここが俺の会社のフロアだ。向こうから誰か廊下を歩いてくる。あの男は同僚だろうか? それとも、上司だろうか?  わたしは廊下にしゃがみ込んだ。 「どうかしましたか?」聞き覚えのある男の声がした。 「いや、別に」わたしは顔を背けた。  声の主を見てはいけない。本当は知らない人かもしれない。顔を見て、もし、そうだったら、俺は……俺は……壊れてしまう。 「気分が悪いのですか?」  俺が顔を背けている間にどこかに行ってくれ! 「肩を貸しましょうか、血沼さん?」  わたしは絶叫した。声の主はわたしを知っている。でも、俺が顔をあげたら、実は知らない顔があるのかもしれない。騙《だま》されるものか。罠《わな》にかかってたまるか。俺は決して顔を見ない。絶叫し続けるんだ。声の主が怯《おび》えて逃げるまで。  その日からわたしは決して、会社への行き帰りで、寄り道をしなくなった。決まった道以外を歩くと不安でたまらなくなるのだ。そして、休日には妻がなんと言おうとも、一日中、家に閉じこもる。街が以前と変わっていることに気づきたくなかったからだ。もちろん、万が一、変化していたとしても、別に不思議なことではないはずだ。いくらでも、理由は考えられる。しょっちゅう、道路工事は行われているし、新しいビルは次々と建築されている。ただ、そうした理由を考えるのに、疲れ果ててしまったのだ。通勤途上で知り合いと擦れ違っても振り向くのは止めた。知り合いでなくなっているかもしれないからだ。もちろん、知り合いでなかったとしたら、わたしが勘違いしただけのことなのだ。だが、そのことを自分に信じ込ませるのはだんだん難しくなる。  わたしは誰とも目を合わさない。誰とも話をしない。わたしはわたしとだけ会話するのだ。自分の言葉を作り、自分の心の中に世界を作る。強固で決して、うつろわない世界を作る。自分を見失わないように、いつもぶつぶつ独り言を言う。人には見えない世界でしか、わたしは安心できない。だから、わたしは、できるだけ、余計な物を見ず、余計な音を聞かずに過ごしている。わたしの世界を乱さないように。  そう。今になって、小竹田という男の言った言葉の意味がわかってくる。手児奈がわれわれ二人の悲劇の原因となった。時間が破壊された世界は因果律が破壊された世界だ。原因と結果の区別はなくなり、逆転する。われわれの悲劇が原因となり手児奈が生まれた。われわれの世界は手児奈に取り込まれてしまった。いや、手児奈こそがわれわれの世界だったのか。それもこれもわたしの幻想。因果にとらわれた限界を持つ心の歪《ゆが》み。自分はいない。世界もない。手児奈もいない。その恐怖を忘れるため、わたしは自分の体に爪《つめ》をたて傷をつける。そして、自分の世界に戻る。  時々、そんな生活にくたくたになる時もある。そんな時、わたしは妻の後ろ姿に、決して聞こえないように、できるだけ小さな囁《ささや》きで問いかけてみる。 「俺は何だろう?」  あなたは犠牲獣。 「何故、人は安心していられるのだろう?」  波動関数が収束するから。 「俺を苦しませるものは何?」  それは運命。でも、本当は違う。 「何故、人は希望を捨てられないのか?」  波動関数が発散するから。 「君は誰だろう?」  わたしは手児奈。 この作品は、第2回日本ホラー小説大賞の短編賞受賞作として、一九九六年六月に刊行された単行本を文庫化したものです。 角川文庫『玩具修理者』平成11年4月10日初版発行            平成14年4月15日10版発行